ポツドール「夢の城」@THEATER TOPS
2006年 03月 12日
「激情」でかなりへこみ、ニセS高原で苦手であることを確信してしまったポツドール。今回は訳あって観なければならぬ、ということで行ってきた「夢の城」。場所はTheater TOPS。
2005年度の岸田國士戯曲賞受賞者というだけに留まらず、何かと話題のこの劇団。そして私が観にいったのは千秋楽だったが、何とか当日券で入ることができた。舞台を観るまで、いろいろなところからの評判を聞いていたがそれが賛否両論真っ二つだったので、表示機かなり心配だった。
だが、 実際観てみたら、その心配は杞憂に終わった。面白かった。
これは起承転結、というような明快な物語がある作品ではない。食う寝るところに住むところ、そしていつでも性欲を満たすことができるところにいると人はどうなるか、という実験の観察である。
客入れの音楽が途切れ、目の前に現れたのは、窓ガラスに隔てられた雑多で統一感のない、若い人が住んでいそうなワンルームマンションの一室。その中にはガラの悪そうな男女複数名が入っていて、しばらくすると、暗転し、タイトルが映像と次の場面の時間帯が示される。そして舞台が明るくなると、その窓ガラスはなくなる。
そこにいる人たちがしていることといえば、食べるか寝るかセックスするか遊ぶかのどれかである。それは窓ガラスのあるときもないときもずっと同じである。見方によっては酒池肉林とも桃源郷とも呼べそうな、でも全くうらやましいと思えない世界がただ連綿と続いていく。
何回か暗転し、そのたびに次の場面の時間帯が映像で示され、それにあわせて窓の外の光の色や、TV番組の内容が変わるのだが、部屋の中にいる人間がしていることに大差はない。
どんなときでも、ゲームしたければゲームするし、お腹がすけばご飯を食べ、そこにいる一人ひとりがきままに行動し、キーボードを弾きたければ弾く。そして、ある人のやることに対して他の人が全くといっていいほど、干渉せず、会話が全くない。聞こえてくる声はTVの音声の他は、女のあえぎ声と泣き声くらいだ。
何で彼らがこんな共同生活をしているのか、どうやって生きているのかといった情報はどこからももたらされない。それは、この作品では、出てくる人間がどういう人間であるとか、関係がどうであるとかは、乱暴な言い方をすれば「どうでもいい」ことだからなのだろう。舞台上にあるものが全てである、そのことがこの作品にとって一番重要だったのではないか。
そこに「行為」があるだけで、それ以外のものがない、ということは、私にこの前観た「ある天才少女スミレ」の中での黒沢美香を思い出させた。
このブログにも中途半端に感想を書いたが、この作品の中での黒沢美香は、こういっては何だが、ぱっと見疲れたおばさんみたいだった。そのおばさんがあるときおもむろに豆電球(?)がついたヘアクリップを取り出し、それを頭に二つ、パンツの左右のポケットに一つづつ着けだす。すると、普通のおばさんは、ただごとではないばかばかしさと哀愁を併せ持った姿が現れる。その淡々とした変化は、シュールかつ衝撃的だった。これを可能にしたのは、黒沢美香の舞台上の自分を見つめる客観的な視線だろう。
「ただいる」ことの徹底的な追求と、という点で、黒沢美香と今回のポツドールは似ている。私はそんな風に思う。
2005年度の岸田國士戯曲賞受賞者というだけに留まらず、何かと話題のこの劇団。そして私が観にいったのは千秋楽だったが、何とか当日券で入ることができた。舞台を観るまで、いろいろなところからの評判を聞いていたがそれが賛否両論真っ二つだったので、表示機かなり心配だった。
だが、 実際観てみたら、その心配は杞憂に終わった。面白かった。
これは起承転結、というような明快な物語がある作品ではない。食う寝るところに住むところ、そしていつでも性欲を満たすことができるところにいると人はどうなるか、という実験の観察である。
客入れの音楽が途切れ、目の前に現れたのは、窓ガラスに隔てられた雑多で統一感のない、若い人が住んでいそうなワンルームマンションの一室。その中にはガラの悪そうな男女複数名が入っていて、しばらくすると、暗転し、タイトルが映像と次の場面の時間帯が示される。そして舞台が明るくなると、その窓ガラスはなくなる。
そこにいる人たちがしていることといえば、食べるか寝るかセックスするか遊ぶかのどれかである。それは窓ガラスのあるときもないときもずっと同じである。見方によっては酒池肉林とも桃源郷とも呼べそうな、でも全くうらやましいと思えない世界がただ連綿と続いていく。
何回か暗転し、そのたびに次の場面の時間帯が映像で示され、それにあわせて窓の外の光の色や、TV番組の内容が変わるのだが、部屋の中にいる人間がしていることに大差はない。
どんなときでも、ゲームしたければゲームするし、お腹がすけばご飯を食べ、そこにいる一人ひとりがきままに行動し、キーボードを弾きたければ弾く。そして、ある人のやることに対して他の人が全くといっていいほど、干渉せず、会話が全くない。聞こえてくる声はTVの音声の他は、女のあえぎ声と泣き声くらいだ。
何で彼らがこんな共同生活をしているのか、どうやって生きているのかといった情報はどこからももたらされない。それは、この作品では、出てくる人間がどういう人間であるとか、関係がどうであるとかは、乱暴な言い方をすれば「どうでもいい」ことだからなのだろう。舞台上にあるものが全てである、そのことがこの作品にとって一番重要だったのではないか。
そこに「行為」があるだけで、それ以外のものがない、ということは、私にこの前観た「ある天才少女スミレ」の中での黒沢美香を思い出させた。
このブログにも中途半端に感想を書いたが、この作品の中での黒沢美香は、こういっては何だが、ぱっと見疲れたおばさんみたいだった。そのおばさんがあるときおもむろに豆電球(?)がついたヘアクリップを取り出し、それを頭に二つ、パンツの左右のポケットに一つづつ着けだす。すると、普通のおばさんは、ただごとではないばかばかしさと哀愁を併せ持った姿が現れる。その淡々とした変化は、シュールかつ衝撃的だった。これを可能にしたのは、黒沢美香の舞台上の自分を見つめる客観的な視線だろう。
「ただいる」ことの徹底的な追求と、という点で、黒沢美香と今回のポツドールは似ている。私はそんな風に思う。
by turujun
| 2006-03-12 14:00
| 演劇