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舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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あたまとからだ

昨日、「ミリオンダラーベイビー」を見てきた。
この映画の評判としては「泣ける」というのがあるようだけど私は結局泣かずじまい。むしろ、見ている最中からいろいろ考えてしまった。考えたこととは映画の出来ではない、念のため。
 この映画は女性プロボクサーの出てくる映画だが、ボクシングそのものを描いた作品ではないし、ボクシングを通じて何かを描いているわけでもなかった。むしろ後半との対比のために前半にボクサーとして上り詰める過程があるように思えた。そしてその対比とは動けるからだと動けないからだ。前半でのマギー(ヒロインですね)は、ほぼボクシングの素人という状態から、フランキーにトレーナーとしてついてもらうことで、頭角をあらわし、タイトルマッチにまで上り詰める。言ってみれば、自分の意思以上に自由にからだを動かせる状態。ところが後半では、ずっとベッドの上で動けない状態だが、意識だけははっきりしている、前半が動なら後半は静ではなく不動。しかもその状態は自分の意志によるものではないわけで。そしてからだを動かし、より良い人生を獲得してきた人がそのからだを奪われてしまうということは、人間として生きてはいても、その人生を生きているとはもはや言えない。で、この映画の結末に向かっていくわけだ。
 一方、トレーナーであるフランキーというのは、ずっとボクシングに関わってきた人ではあるけど、ギリシャ語の本が読めたりするようなある意味、知性のある人のよう。しかも、相当敬虔なクリスチャンでもあるようだ。(23年間ほぼ毎日ミサに通っている、みたいなエピソードもあるので)つまり、フランキーは、「からだ」の人であるマギーに対し、「あたま」の人といえると思う。そういう人が、からだで何かを成し遂げていく人を導き、支えていく。そして最後のマギーの望みを理性や信仰に反してまでかなえてしまうというあたりに、私は、この映画は「からだとあたま」の映画であり、「あたまの敗北」なのではないか、ということを考えてしまったのだった。


(まだとりとめもなく書いているので、まとまりがありません。訳がわからないかとは思いますが、おいおいまとめていきます)
by turujun | 2005-06-22 20:55 | 映画