視線
2005年 02月 12日
12日の回にいけない、と分かったそのときから、行く気のなかった砂連尾理と寺田みさこ「Loves me or loves me not」。結局行ってしまった。 パークタワー・ネクストダンスフェスティバルで観た彼らの作品があまりにつまらなかったので、何故観ることにしたのか自分でも不思議だが、結果的には行って良かった。
前回の作品にはさほど感じられなかった、二人の動きの関係の変化するさまが今回は全体にわたって明確にあった。しかも動きが立ち上がっていくのが、単純に一方のうごきに対応してではなく、動きとそこにあるプラスアルファに感応して広がっていく、しかもとめどなく、というところがどうにも面白かった。
チラシに「他のダンサーに振付をして、その振りを自分達に写した」というようなことが書いてあって、その成果なのかもしれないが、「見る」「見られる」という行為に対してとても客観的な作品という印象を受けた。特に、前半で舞台中央の後ろよりの位置で砂連尾理が踊っているのを、寺田みさこが椅子に座ってみている、という場面。この場面では、「見る」「見られる」という関係が舞台上で一つ完成していて、それを観客が見ている、という状態になっている。「見る」という動作が主体になる、ということは私にとってとても興味深かった。、その後の展開(寺田が砂連尾の動いているのに誘われて、砂連尾のもとに歩み寄って、踊りが展開していく)に強い説得力がもたらされているように感じられた。
明日もこの公演はシアタートラムで行われます。上演後、アフタートークがありますが、そのゲストはチェルフィッチュの岡田利規さんです。本当はこっちに行きたかった…残念。
前回の作品にはさほど感じられなかった、二人の動きの関係の変化するさまが今回は全体にわたって明確にあった。しかも動きが立ち上がっていくのが、単純に一方のうごきに対応してではなく、動きとそこにあるプラスアルファに感応して広がっていく、しかもとめどなく、というところがどうにも面白かった。
チラシに「他のダンサーに振付をして、その振りを自分達に写した」というようなことが書いてあって、その成果なのかもしれないが、「見る」「見られる」という行為に対してとても客観的な作品という印象を受けた。特に、前半で舞台中央の後ろよりの位置で砂連尾理が踊っているのを、寺田みさこが椅子に座ってみている、という場面。この場面では、「見る」「見られる」という関係が舞台上で一つ完成していて、それを観客が見ている、という状態になっている。「見る」という動作が主体になる、ということは私にとってとても興味深かった。、その後の展開(寺田が砂連尾の動いているのに誘われて、砂連尾のもとに歩み寄って、踊りが展開していく)に強い説得力がもたらされているように感じられた。
明日もこの公演はシアタートラムで行われます。上演後、アフタートークがありますが、そのゲストはチェルフィッチュの岡田利規さんです。本当はこっちに行きたかった…残念。
by turujun
| 2005-02-12 00:24
| ダンス