舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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今日は、ひさびさの柿喰う客。出演者が皆女性、総勢14名とのこと。

タイトルがかなり強烈なので、「~を観にいく」などと、何も知らない人の前で言ってみたり、ツイッター上でつぶやくのは危険だなあとか思っている。

さて、この作品は、とある女子高のサッカー部が勝利を目指してチームワークを高めるために試行錯誤する…という話。こう書くと、なんとなく青春モノのような雰囲気が漂うのだが、スポ根青春モノによくありがちな、試合におけるドラマは大胆に端折り、タイトルがタイトルなだけにそんなことはまったくなく、柿喰う客だとおなじみのサブカル的なモチーフを、てんこ盛りにし、あくまで作り事、「演劇」としててんやわんやに見せている。

女子サッカーという女子スポーツとしてはずいぶんと泥臭い種目を選んでいながらも、舞台上にいる女優は皆「ギャルか!」と突っ込みたくなるような衣装に身を包んでいるので、話の中でサッカーの試合の話をしていても、それ自体にはまったくリアリティがない。そして、チームワークを高める手段として取る行為に関する言葉が何度となく劇中に出てきていながらも、言葉が出てくれば出てくるほどにリアリティがないのである。

このリアリティのなさは一体何なのだろう?と思わされる。

なお、本編後のアフタートークで作・演出の中屋敷法仁が語っていたから知った。そこで、「この作品を書くにあたり、あさま山荘事件とか、三島由紀夫の自決とかについても取材した」とのこと。しかし作品からはこれらを感じさせる要素は思い当たらないな…と思ったのだが、よくよく舞台を思い返してみると、本作は全体主義の話であったと思い当たることがかなりあった。
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by turujun | 2010-05-23 14:00 | 演劇

木ノ下歌舞伎「勧進帳」

予約を失念していて、当日券で観てきた木ノ下歌舞伎の「勧進帳」。今回で2度目の団体。
上演時間1時間という短いのに相当に濃厚、そしてポップな作品だった。

本編の面白さもさることながら、アフタートークの異様なテンションの高さ(主宰と演出)も相当のものだった。
そのアフタートークの中で、観客から「この作品で一体何が言いたかったの」という質問が出て、主宰および演出がそれぞれに「歌舞伎の中の勧進帳の位置づけの特殊さや権威を剥ぎ取りたかった」「現代の身体で表現する歌舞伎の追求」というような回答をしていた(ように記憶している)。
ここで私がふと気になったのは、質問した人は、この作品に何らかのメッセージや主張を読み取りたかったのではないかということだ。
 私の経験からすると、「物語」には主題=作者が言いたいことがある、と一貫して学生時代に教えられてきている。もしこれが私達の周辺の世代、そして私より下の世代において同じであるとした場合、特別な教育を受けていない限り、「物語」を含有するあらゆるもの、映画しかり演劇しかりなのだが、には主題があってしかるべきだと考える傾向があるのではないだろうか。そしてその「主題」はときとして作者のメッセージにすり替えられ、あらゆる作品には「意味のあること」が込められているべきだと考えてしまっているような気がする。

その一方で、演劇の創り手は、「演劇」を主義主張を発信する道具として捉えている人ばかりではなく、今回のように「歌舞伎の特異性に対する批評として」演劇をする場合だってある。
そうした場合、観る側の視点と創り手の意図にはおのずとズレが生じてしまうのではないだろうか。今日は観客側から創り手へ質問し、そのあたりが明らかになったので、ズレがあったとすれば修正されただろうが、これがそういったコミュニケーションがないままに観客が劇場を離れたとすれば、観客の中に演劇に対する不幸な誤解が生じるのではないだろうか…と思った。
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by turujun | 2010-05-16 15:00 | 演劇
トヨタコレオグラフィーアワードに出場した際の「クーラー」に2つの小品を組み合わせて作った今回の作品。当日パンフによると、海外で上演する際に、「クーラー」だけだと短いので、2つの作品をつけたとある。

それによって、

個人的には「お別れの挨拶」パートでの送り出す側の派遣社員の女性の最後の台詞が「これ言わすか!」と思い非常に面白かった。
この作品のポイントというのは、ここ数年話題になり問題ともされている非正規雇用の問題をテーマの一つとしていながらも、それに対して何らかの意見やメッセージ(「●●であるべき」とか「●●すべき」とか)を発信するわけではないというところなのではないかと思う。
それゆえに、社会的なモチーフを含有しているにもかかわらず、ある意味軽薄といってしまっても良いほどに軽い作風になっている。それが良いのか悪いのかといわれると、個人的には前者だったりする。社会的な問題を取り上げるからといって重くある必要はないのではないか、と思うので。

世間では、この作品がチェルフィッチュにしては珍しく「退屈しない」と評判のようだが、その理由の一つに、一つの作品に付き、一曲そのまま流している…というのがあるからではないかと思った。曲の終わりがその作品の終わり、と思えば何となくめどがついて安心して観られるというものだ。
逆に言うと、終わりの予兆のない観劇ほどつらいものってない。
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by turujun | 2010-05-08 14:00 | 演劇
GW中は何気にあまり舞台を観れないのでは…と思い、ちょっと気になっていたこの公演に足を運んだ。
実は、この公演の平日のポストパフォーマンスパフォーマンス?が相当気になっていたのだが、どう考えても平日は無理だ…というとで諦めていたものでもあった。

さて、この作品はタイトルにあるとおり、「四谷怪談」を下敷きにしたものらしい作品と、落語をもとにした作品の2本が切れ目なく上演された。しかしこの2本にはまったく繋がりはない。

四谷怪談の方は、舞台正面奥の壁に四谷怪談のあらすじを映写しながら、その前で役者が演技をする、という形態をとっていた。

その内容とは(ネタばれです。でももう公演は終わっているはずなので…)、「あるとき突然彼女の父親から、「娘と別れてくれ」といわれた男がひょんなことからその父親を殺してしまう。彼はその現場を目撃した女性に脅され、その女性の恋敵を殺すよう言われ、それを実行に移す。」というものを、「男」サイドと「彼女」サイドの視点から描いたもの。そのつくり自体はなかなか面白いのだけど、何と言うか、全体的にアイディア勝負なようで、アイディアが不発といった感じで、今ひとつ物足りないというのが正直なところ。

一方、落語をベースにした方は、うって変わってぐっと面白い。冒頭の山内健司が「岩井秀人」を演じているところとか、飛田新地で娼婦を買った一人がその娼婦と恋仲になってしまう妄想にとりつかれるあたりとか、こちらは演出のアイディアがズバリ当たったといって良いと思う。
特に、飛田新地での、岩井の友人2人のそれぞれが自分の選んだ娼婦と一緒に部屋へ行った時の、部屋の中の描写の表現が実にゆるく、そのゆるさが作品に良く合っていた。
古典のもつ温かさに対して冷静な目線を持ちながらも、彼自身の価値観に照らし合わせた「落語」を作りえたのではないかと思った。
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by turujun | 2010-05-01 21:47 | 演劇