舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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久々に見たreset-Nの新作。
劇作家・演出家の夏井氏自ら作品へ介入しながらも、現実と創作が交差する世界観が見事に創られていた。
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by turujun | 2008-07-26 22:55 | 演劇
今日乗った京浜東北線山手線、東西線の全てで、うっかり乗り越してしまいそうになったのは、この本のせい。
もう読み出すとどうにも止まらない。

3話に分かれているのが幸いで、話の切れ目で読書を中断で切るのだが、そうでないところで中断したときは、隙あらば本を取り出して、一気に読んでしまった。

この作品は、著者が多感な思春期を過ごした在プラハ・ソビエト学校でであった三人の大切な友達の、それぞれの当時起こった事件や、大人になって彼女達との再会までの経緯と、再会してからの彼女たちそれぞれの暮らしぶりと会話で構成されているドキュメンタリー。
描かれているのは、小学生から中学生にかけての多感な時期ゆえの学校生活のオモシロエピソードや再会の感動的シーンだけではない。彼女達は著者も含め共産党の関係者。それゆえに当時の共産主義国家同士の対立や、母国の体制崩壊や民族対立といった激動の社会情勢に皆翻弄される。この作品の中に出てくる人には、こどもの頃に語った夢が叶った人は誰一人いない。しかし、それでありながらも自分の生活を築き、幸せに生きようとしている。

学生時代の世界史の教科書にかかれてはいるものの、授業時間が足りないがために省略されがちで、それゆえにどうしても漠然としたイメージと、文字で読んだだけの知識で構成されている旧共産主義・社会主義国家の国々を、ぐっとリアルに感じさせる作品。
新聞・TV・雑誌だけではなく、学校の授業でもいかに偏った情報しか得ていないのかを感じさせられた。

それにしても、著者・米原万里の友情の厚さ、行動力がスゴイ。プラハでの居住経験と、ロシア語同時通訳で活躍していたことでロシア圏で言葉に困ることがないというアドバンテージがあるとはいえ、音信不通になっていたこどもの頃の親友捜索を、わずかな情報を頼りに実行できるなんてなかなかできることではないし、結果として彼女は三人に見事再会している。

必要があれば戦火の中へ飛び込むことをいとわないほどに「会いたい」と思える友達を得た米原万里がうらやましい。
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by turujun | 2008-07-26 22:32 | 書物
この作品を見ている間中、「大卒のヨーロッパの人々は議論に強い。なぜならば大学に入る前に哲学的な問題について徹底的に議論する訓練を受けているから」という話が頭の中にぐるんぐるんしていた。これを書いていたのは誰だったのだろう?米原万里か?(最近凝ってる)
この見解が腑に落ちる作品だった。


フランス人演出家と日本の役者により作られた作品。
当日パンフレットによると「空虚と夢を通っていく歩み」のことだそうだ。

作品は、大まかに分けると10のパートに分かれ、パートによってはさらに細分化されている(7の1、みたいな感じで)。

舞台上には白い模造紙が張り巡らされており、墨汁と大小の筆が壁沿いに点々とおかれている。多分この模造紙に、あの筆と墨汁で何か書かれるんだろうな…ということは見当がつく。そしておそらくこれはかなり前衛っぽい作品になるのではないかということも。

実際、作品は「演劇」というよりはパフォーマンスといってもよいのではないかという作品だった。

役者の口から語られる言葉は、殆どが舞台上の人間と関係を築くことを目的としていない独白めいたもの。その口調も抑揚がない。語られる言葉は「生」や「美」についての概念的なものであり、具象的な言葉は排除されている。
ときに二人の役者が相対してセリフを口にするときもあるが、そこで愛について語っているときでさえ、そこに生々しさは一切ないのだ。また、語尾が極端に強調され、感情が高ぶっている状態を表現しているときも、それが目の前にいる人間に対し、自分の気持ちが高ぶっていることを知らしめることを目的としているようには見えてこない。
そして作品中で「歌」と呼ばれるものは、一定の音程と音量を保ちながら続いていくハミングだったりする。
演劇的な表現をたくみにそぎ落とし、言葉と体とセリフで、本質的なことへアプローチしている作品だったと言えると思う。この作品の中に演劇でよくある共感や理解を見出すことは難しいが、その一方で演劇の定番の技術を用いず、もっと根本的なところの体と言葉の活用によって、より本質的かつ詩的な世界を創っていた。

もう一つこの作品の特徴として挙げられるのが、作品中での墨汁と筆の使い方。はじめはセリフの一部を筆で壁や床の模造紙に書いていくだけだなのが、そのうち、身体に言葉を書き出し、最後には墨汁を筆で役者に向かって飛ばすは、身体に自ら滴らせるは、すさまじいことになる。そして文字と飛び散った墨汁で混沌とした模造紙は、「6.苦い破壊の夜」というシーンで、ビリビリと、見るも見事に破りまくられる。破られた模造紙は床に無造作に置かれ、さながら混沌を表現するオブジェのように見えなくもない。
筆と墨汁を使って文字を書く行為は、ヨーロッパの人々にとっては今でも何か表現上で特別に印象深いものがあるみたいだろうか?
確かに、筆で文字を書くというのはペンで書くのとは違い、必ずしも自分が書きたいように筆をコントロールできるわけではない。肉体的・精神的なコントロールの影響を明確に受けるというところが新鮮なのだろうか?壁に書かれた独白の一部と筆跡とからだ・心の関わりあいというのをリンクさせるというのは演出家の意図だったのだろうか?

この作品を理解したいと思うのであれば、当日パンフのヤン・アレグレのあいさつ文は必読である。私はこれを読んでいなかったがために、「ヨーロッパのインテリはやっぱり哲学が好きなんだな…」ということのみずーっと考えるはめになる(というか、私はそうだった。要は理解できなかったということ)。


【余談】
墨汁を撒き散らして舞台上を汚していく様を見ていて、見事な汚しっぷりだな…と思いつつも、それが模造紙があるエリアできっちり収まっているところに節度を感じた。もし墨汁が客席の方に飛んできたり、それが予測されるがために前から3列目ぐらいまでビニールシートが用意されていたりしたら、もうそれはゴキコンかコクーン歌舞伎かというエンタメの世界。それはそれで別のスリルが生まれて面白そうだが、そんなことを起こす際には前もって知らせて欲しい。
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by turujun | 2008-07-21 22:52 | 演劇
ワンドリンクつきだったもので、ためらいなくビールをオーダー。そして軽くいい気分になりながらスタンディングで鑑賞。

権利関係で少々問題があるのでは?思うようなもの、80年代のCM?というようなものを含む映像が面白い。
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by turujun | 2008-07-20 14:00 | ダンス
ニブロールの主宰・矢内原美邦が手がける演劇公演。全然意識して行っていなかったのだが、今回の公演は「準備公演」だったのだそうな。

ニブロールのダンス公演は大きな会場で上演されているものを観ることが多いので、映像とダンスと照明の立体的な空間造形に意識が行くのだが、今回の演劇公演は小さな空間でどこまで密度を高められるか挑戦しているかのようだった。

登場する役者はタイトルのとおり、5人姉妹。それに加え、その家の執事を勤めている「山田」という男。

裕福な家庭に生まれ育ち、家族皆で仲良く暮らしているようにみえる5人姉妹ではあるものの、それぞれがそれぞれに大きな欠陥を抱えていることがだんだんと分かってくる。その欠陥ゆえに、裕福でありながらも深い不安を感じながら、それをかき消すかのように日々を暮らしている姿が描かれている。

矢内原美邦のダンス作品にあるような、直線的な体の動きとスピード感溢れるダンスはこの作品でも健在。しかし、この作品で最も強烈だったのはそのセリフのスピードと量、ダンス以外のときのしぐさ、そして笛の音の過剰さだ。
どれもが尋常ではない量で作品中に盛り込まれ、見るものを圧倒していった。
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by turujun | 2008-07-20 11:54 | 演劇

smartball「kiss me, deadly」

王子小劇場の佐藤佐吉演劇祭が現在開催されている。このフェスティバルでは観客向けの試みがいくつかあり、そのうちの一つに「フェスティバルの全8作品を見た人で15万円山分け」というものがある。対象は全ての公演を有料で見た人だ。

私は柿喰う客を観にいってこのイベントを知り、興味本位で参加した次第。でも、新しい才能に出会えるチャンスを得られてかつあわよくば15万円…ウフフ、という楽しみがあるのはなかなかステキなことではないだろうか。

というわけで、今回佐藤佐吉演劇祭の2作品目、Smartball「kiss me, deadly」を観てきた。

客入れのときから大音量でものすごいロックを流していたのでバンドの話かと思いきや、さにあらず。湘南のどこかに住む、三人姉妹の物語。拳銃の密売に手を染める長女、会社員をやりつつバンド活動をしている次女、姉の下で売春をしている手癖の悪い三女の三人の絆を描いた話だった。

こういう世界が実際にあるのかどうかは別として、舞台上にその世界があることを信用させるほどの力があったか?というとなかった。
その理由は一体何かと考えたときに一番に挙げられるものはやはり、物語そのものがつくりものめいていることと、それを形にする上で、かなりリアルな形を追求したがゆえに、「つくりもの」感が増大してしまったというところだ。
舞台上で生々しい前戯をやってみせたり、生着替えしてみたり、裸の人を出してみたりするところはポツドールぽくあるのだが、ポツドールにはそうすることが表現として必然であるのに対し、smartballの場合には、かならずしもそうしなければこの世界観が作れないというものではないように思えた。ムダに脱いで、一般的には人の目に触れないところで行われていることを人前でやることで、ショックを与えようとしているのかもしれないのだが、その手の表現についてはすでに先例があるがために狙ったほどの効果はなかったのではないだろうか。
それぞれの役の造形も弱いな…と思った。しっくりと来ている人の方が少なかったぐらいなのだ。一番はまっていると思ったのは、風琴工房の宮崎美子が演じていた村岡(だったか?)という、長女の商売敵役だった。実際にこんな人いるのかどうかという点では「?」だが、風琴工房のイメージとは全く違う裏家業の女を、文字通り体を張ってド迫力で演じていたのが印象に残った。
それからすると、他の人はメインを含め、弱いという思いが否めない。

また、結末もそれまでの状況で積み上げてきたものからすると少々情緒に流れてしまっていた。
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by turujun | 2008-07-20 11:24 | 演劇
2007年度岸田国士戯曲賞を受賞した、前田司郎による戯曲を、白井晃による演出で上演されたこの作品。

前田司郎自身の劇団である五反田団では、万年床が敷かれた部屋とか、ペットボトルやコンビニのお菓子、マンガが散らかっている部屋といっただらしないしつらえの、いわば日常的な空間で、淡々とした現代口語演劇のスタイルでもって不条理な世界を作りあげているのだが、それが他の演出家の手にかかるとどうなるのか、という部分が一番の見どころだった。

劇場内に入ると、目の前にジャングルジムやシーソー、ブランコや砂場といった遊具がほぼ原寸で設置されていて、一見してそこが公演であることがわかる。

しかし、舞台がはじまってほどなく、そこは公園から日常生活の場へと変貌する。
上に書いたようなもののほぼ実物が設置されている舞台上で、すでにこれがマジック。舞台上をシンプルで抽象的なセットにして、公園であった筈のところが実は家!みたいなことはしないところが力技。戯曲のシュールさを、具象で形にすることで受け止めている。

作品全体としても、シュールさ爆発。その中に、「家族」の定義やエディプス・コンプレックス、親殺し、最近の前田戯曲に多く見られる「死」についての問いかけが織り込まれている。
場所の設定や話の展開で微妙に印象は薄いが、この作品で描かれている心理的な世界はかなりグロテスクだ。
二人の子供の母親であり、国村準演じる男の「妻」である女(南果歩が演じている)は、自称・世界で最初の人間であり、夫である男さえも自分の一部でできていると主張する。ともすれば、夫も自分、息子も自分、娘(ピラニアと自分が交わってできた子、ということになっている)と世界の創造主であるかのような振る舞いと発言をすることで、その世界をコントロールしようとしている女を演じる南果歩は、自ら「言っていることは全部ウソ」というほどに支離滅裂なのに、男に対しても、息子に対しても、「家族」であることを強制しようとしているあたりの狂っている感じをうまく出していたと思う。


国村準、南果歩といったベテラン俳優達による、よく通る声とメリハリの利いた演技で演じられる前田戯曲の世界は、全体的に低血圧気味の喋りでだらだらと展開していくのが常の五反田団とは違って見え、いつも以上に不可思議な感覚が強調されていた。
常日頃の前田演出の場合は、日常生活の空間の延長線上に劇世界を成立させようとしているのに対し、今回の白井晃演出が創作の世界の中で劇として作品を成立させているように思えた。

もう一つ気になったことといえば、今回の作品ではあまり笑いが出ていなかったこと。以前前田司郎が、間の取り方や役者のせりふの言い方や表情でお客さんを笑わせるように仕掛けることがあるというようなことを言っていたことを考えると、戯曲そのものでは「笑い」はそれほど重視されていないのかもしれない。
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by turujun | 2008-07-06 13:00 | 演劇
明治学院大学白金キャンパスの前をたまたま通りかかったところ、見つけた「錬肉工房」の公演の立て看板。入場料が無料ということで、夜は予定もないし、と行ってみた。

会場は明治学院大学白金キャンパスの奥の方にあるアートホールというスペース。場内は円形の空間で、座席数にして200席以上あるのではないだろうか。
そこにぎっしりと陣取るのは、イマドキな若者たち。おそらく現役明学生が大半なのだろう。観た感想をレポートに書いたりするのだろうか?一体どんな感想を書くのだろうか?と気になった。

かつて観た錬肉工房の作品は、たしかカフカの詩か何かをモチーフとしており、舞台が始まるや否や、役者が15分くらいかけてだんだんとかがんでいく…という、何気なく身体表現の極限をさりげなくみせるところから始まるという(そして一緒に観に行った人は、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたという)という作品だった。
ちょっと前に「少しずつだけど表情が変化している写真」という現代アートを見たが、それをリアルな体が体現していたようなものなのだから、前衛ここにきわまれりといったところだ。

さて、今回観た作品は、前衛としか呼び様のない作品であったものの、前回観たものに比べれば、舞台で起こっていることが明確で、とっつきやすいといってよかったと思う。
この作品の元になっているテキストは、高柳誠の「月光の遠近法」。舞台がはじまるとともに場内に流れるニューミュージック風のミディアムバラードが流れ、(誰の歌なんだろう?これ)それが終わるとともに、「シーッ」という空気を吐き出すような音がする。(これを聞いて、過去の作品の記憶がどーんと蘇ってきた。)次いで、役者の度持っているかのような声とセリフがはじまる。
そのセリフは、テキストの文を分担して読んでいるようであり、その内容は、いわゆる詩のようなものあり、物語の一節あり、物語の登場人物のセリフありと、そのシーンにより違う。
私は全く予備知識なしにこれを観たので、目の前の舞台で起こっていること一つ一つを追っていくのが精一杯だったのだが、どうやらこれは、破滅的な世界観をうたった詩と、「エレクトラ」の物語がミックスされたような内容であることがだんだんわかってくる。
(実際にこの「物語」が「エレクトラ」であることが分かったのは、帰宅してググッた結果だけど)
物語が内包されていることになかなか気づくことができなかった私は「これって一体…?」と気を散らしながら観てしまっていた。
この作品に関しては、前もってテキストに当たっておいたほうが、舞台で展開される作品世界自体をより堪能できたのではないかな?と思った。

今回も全く持ってエンタテインメント的な要素はない、まさに前衛といった作品。体の動きと声によって、作品の世界を具現化していくさまは、キャッチーさは皆無とはいえ、この創造力は凄いと素直に思った。
それを可能にするのは、演者自体の能力。体の表現力はもちろん、今回特に私が良いと思ったのは、役者の声。男女問わず全ての役者の声が劇場内の隅々(私は後方に座っていたので)に力強く響き渡り、耳に心地よく響いてきた。
また、この作品でもう一つスゴイ!と思ったのが照明。終始最大でも満月の明るさぐらい、つまりかなり暗めの舞台照明だったのだが、その薄明かりの中にも、ある役者だけを際立たせるように少し明るいピンスポットを当ててみたり、役者の体の一部に光を当ててみたり、暗転ギリギリのところまで照明をグッと落としてみたりと、さまざまな表情を持つ照明が展開されていたことに、観終わってから感心してしまった。
「観ている間はどうだったの?」というと、実は場内の空調が全く効いていない状態での観劇となったため、時間が経つにつれどんどん湿度と体感温度が上昇し、最後の方では新たなBGMが始まり、舞台上の照明が変化するたび、「まだ終わらないの?」と心の中でシャウトしていたダメ状態になっていたので、正直舞台への集中力は欠如していた…。

それでも、私はこれまでの観劇経験から、「舞台に近くて桟敷」より「舞台から遠くてもイス席」の方が楽であることを知っており、まよわずイス席を確保したのでまだ楽だった。舞台近くの席の桟敷席に座っていた(たぶん)明学生一同は暑いわお尻が痛いわで相当辛かったのではないだろうか?
いつもだったら舞台上演中にケータイで時間を確認するような輩に対しては目くじらたてまくりの私も、今回については「そうだよねー、確認したくもなるよねー」と温かな気持ちを保つことができた。

上演時間は約1時間30分。観劇後の疲労感は、2時間以上閉じ込められていたかのような感覚だった。無料で観ておいて何ですが、本当に、あの空調だけはどうにかしたほうが良いかと思う。

【余談】明学と錬肉工房といったいどんな関係があるんだろう?と思っていたら、主宰の岡本章氏が明学の先生のようです。直接的な関係があるというわけですねー。

【余談2】「月光の遠近法」で検索してこのブログにたどり着いている人の数が日曜日に激増していた。観劇レポを書かねばならない学生さんが来たのだろうか?あまりお役に立てないブログですまないね。
自分が大学生のときにこれを観て、感想を書かねばならないとしたら、結構書きにくい、というか書きづらいタイプの作品だと思う。
学生の皆さん、がんばってください(レポート書くと決め付けてます)。
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by turujun | 2008-07-05 23:06 | 演劇