舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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極私的な理由で、夜明け前的な状況の中で観にいったこの作品。

こんな状況の中で観にいくにはあまりにもその内容はヘビーだった…。

一人の女性が、家族への配慮や思いやりと、自分自身の欲望の狭間で揺れ動き、その選ぶ行動がことごとく裏目に出て、袋小路へ追いやられていくところへいろいろな偶然が重なり合うことで周りの人もろともたたみかけるように不幸になっていく姿を描いている。

まだまだ公演が続く作品なのであまり細かいことはかけないのだが、1世紀前の作品でありながらも、その本質的なテーマを変えることなく伝えつつも、その作品の設定自体に現代的なトピックを織り込むことで、この作品をクラシックなものとしてではなく、現代演劇として成立させているところが非常に面白い。(ところどころに時代がかったセリフが入ってくるので、この作品の時代は一体いつなのだ?と混乱しないこともないが)


【余談】
不思議なのは、設定に現代的なトピックを取り入れつつも、女性が語る言葉はあくまでクラシックなそれ。(「~しなくてよ」みたいな。)
いまどきの言葉にしないのは、坂手洋二のコダワリなのだろうか?
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by turujun | 2008-06-30 19:00 | 演劇
昨年はそうでもなかったのだが、今年に入って観てみたいと思う演劇団体が増えている。

この柿喰う客もその一つ。いろいろなところでその名を目にするようになったので、是非チェックしておかねばと思い、今回初見とあいなった。

開演前のケータイ電話の電源を切ってください、という告知をしていた人がネコ耳のメイドのを見て、どんな演劇だ!?と一瞬警戒(この劇団のHPによると、この方は役者ではなく、制作だったようです)。

そして開演すると、いきなりの華麗な殺陣シーン。あれよあれよと切っては倒し、切っては倒ししたあげく、「これは、本編とは何の関係もありませ~ん!」といって、舞台裏へとはけていってしまう。

そこであっけに取られているうちに、さくっと本編が始まる。

舞台は江戸時代中期。
徳川吉宗が亡くなり、9代目家重が跡を継ぎ、将軍が大名達に「キャラ」を定め、その「キャラ」を演じることを強制する法令を発布する。
とある弱小藩の藩主・瀬戸際切羽詰丸が当てられたキャラは「裏切り大名」。裏切り大名として、幕府に反旗を翻すことを命じられる。それに従わなければ、お家断絶、藩取り潰しという、まさに従っても従わなくても反逆と取られてしまう矛盾した状況に追い込まれるなか、幕府に忠誠を誓う切羽詰丸は、「裏切り大名」として、着々と軍備を整えていく…。という話。
そもそもそんなことは江戸時代には起きていないことが分かりきっているという時点で、この物語はフィクションであることは明らかなのだが、それだけではなく、衣装から舞台装置、作品に登場する役名や、セリフの端々に、フィクションと現実を行きかわせるような仕掛けがされていて、ここまでデタラメをやればもうこれはこれでありか、と思えてくる。こういうのってメタフィクションっていうんですかね?

後半はいりかけぐらいのところまで、タイトルと内容の関連が全く分からないものの、クライマックス?に向かうなかで、「キャラ=縛る」ということに言及することで「ああ、そういうことね」と理解でき、かつ意外に青臭い話(といっては大変失礼)になっていくところがおや?と思う。

シーンのところどころにコントがさしはさまれる、舞台装置と照明と衣装が派手、歌って踊るなどなど、劇団新感線をはじめとする、関西の劇団っぽいところがかなりある。でも東京の劇団なのだそう。意外。

役者も演出も照明・音楽・舞台美術全てがハイテンションでノリノリ。ノリノリすぎて言葉が聞き取れなかったり、箱のサイズと比べて声が大きいのでちょっとセリフが効きづらかったのが残念。

【余談】この作中の地味変坊主を演じていた役者がなんとなくオリエンタルラジオのあっちゃんに似ている…気がする。
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by turujun | 2008-06-29 21:24 | 演劇
特に何も見る予定のない日曜日。
そういえば、日本橋で茶箱の展覧会やっていたな~なんて軽い気持ちで出かけてみたならば、会期が6月29日まで。7月までやっているものだとばかり思っていただけに、びっくりして思わず入館。

閉館まで1時間弱、ということでかなり駆け足での鑑賞になってしまった…。

今回の展示は、企画展のものは全て三井家からの寄贈のものということ。
時代によって展示室を変えて展示されていたのだが、その一つ一つの部屋に展示されている道具類の芸の細かいこと、贅沢なこと。
道具なんて一つ揃っていれば良さそうなものなのに、違う組み合わせの道具の茶箱をいくつもつくってみたり、一つの籠の中に、一つの種類の道具が2つ三つ入っていて、そのときどきで使い分けられるになっていたり。箱を作っている素材が薬師寺の古材であったり、箱の装飾として自分が使っている櫛を使ってみたりとその茶箱・茶籠を作った人の趣味や趣向が感じられる。
箱に入れて持ち運ぶだけに、道具類は全て普通のものに比べて小ぶりのカワイイサイズ。こうしてみると大人のおままごと道具のようだった。
個人的にツボだったのは、伝・雪舟という掛け軸。茶箱用の掛け軸は幅が普通のものの1/3~1/4ぐらいとこれまたサイズが小さいのだが、サイズ以外の部分は普通の掛け軸と同じように仕立てられているところが面白い。
また、茶箱にコンロが入っていたり、野点用の風炉があったりと、旅行中でもきちんとした道具でお手前ができるようになっているのもスゴイ。

お茶の道具でよくいわれる格付の対象にはならないものではあると思うが、これだけの数のものを一同に集めて展示、しかもその出自が全てとある一族のものだと思うと、昔の豪商そして財閥の経済力の凄さを認識させられる…。
展覧会のタイトル「数寄の玉手箱」、まさにその通り。
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by turujun | 2008-06-28 15:30 | アート

池内紀「出ふるさと記」

池内紀といえば、ドイツ文学者として、多くの小説を翻訳され、かつ小説やエッセイも精力的に書かれている方。

その彼の近著がこの「出ふるさと記」。日本の近現代の小説家の「ふるさと」とのかかわりを描いたもので、もとはというと「新潮」で連載されたものをまとめたものだという。
この中で、取り上げられている小説家は12人。高校時代の国語便覧の近現代の項で太字ゴシックで取り上げられることはなくても、名前は載っているぐらいの人気と知名度の人達だ。つまり、極私的な感覚でいうと、多少の差はあれども超有名というわけではない。
なお、私がこの中で少しでも読んだことがあるのは、阿部公房、坂口安吾、中島敦、寺山修司のみだった。

「出ふるさと」としているだけに、そこで描かれるのは作家の人生そのものだ。

ある人にとっては、「ふるさと」とは思い出すものであり、ある人にとっては確かめるものである。また別の人にとっては何度も何度も戻っていくところだったりもする。そのことと、それぞれの作家が作り出す作品とのかかわりが、この本の中で語られている。
知っている作家のものであれば読んだ作品を頭の中で思い出しては「ああ、そういうことか」と思い出して楽しめるし、知らない作家のものであれば、この作家の代表作ってどんなものだろう?と興味が湧く。

基本的に、その人の人生と創作とふるさととの関わりについて書かれているものだが、一本だけちょっと傾向の違うものがある。
それは中島敦の項。
中島敦といえば、漢文学者の家系に生まれたことから自身も漢文を能くし、その影響が出ている優れた短編小説は、「近代日本散文の見本」とされているが、このエッセイによると英語も堪能で、生前勤め先の女学校で、国語と英語を教えていたという。
そんな中島敦が、「狼疾記」という小説の中に、カフカの「あな(現在の訳では『巣穴』となっているそうです)」という小説の感想が出てくるところから、この小説についての解説が入ってくる。そしてこのエッセイのみ、中島敦と、カフカ、そしてふるさとの3つの要素のかかわりについて書いているのだ。
やはり、カフカ小説全集を翻訳した池内氏だからこそ、ここは見逃すことができなかったのだろうか?「あな」のあらすじにページを割き(3ページ強)、そこからガッツリと中島敦のカフカ作品への興味とその影響、そして中島敦の人生とカフカのそれとの類似性と、「カフカ」について力強く語ってしまう池内氏の興味のありようが、また面白い。
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by turujun | 2008-06-27 00:17 | 書物
toiは、劇団Innocent Sphereから独立してできた演劇レーベルということなのだが、以前みたInnocent Sphereとは全然作風が違う今回の「あゆみ」という作品。

当日パンフレットには、
「(前略)というかそれ以外に何も見るものはない。(中略)
キャラクターもストーリーもドラマもほとんどない(後略)」
とある。実際はどうだったか?

さて、劇場に入ると、いつもは外階段を上って入る入り口の正面に舞台をつくるところが多いアゴラだが、今回は、入り口向かって左半分ぐらいに座席が作られていて一瞬戸惑った。
座席に座って目に入るのは白い布がはられた巨大なパネル一枚のみ。

開演と同時に、その白いパネルの前に黒い服(でもデザインは皆違う)を着た女優が10人座っていて、思い思いにセリフをポツポツ口にしていたかと思うと、いつのまにか話が始まる。

そこで展開されるのは、主人公である「中野あゆみ」の、初めて歩けるようになった瞬間の家族の喜びであり、小学生のころのクラスの男の子とのちょっとしたケンカだったり、友達を仲間はずれにしてしまったり、好きな先輩ができたけど失恋してしまったり…といういってみればありふれた、でも誰もがこういうことってあったと思えるエピソードの数々。
それを女優が複数の役を入れ替わり立ち代りしながら演じていく。ある女優二人が目の前をお母さんとあゆみが歩いている場面で、二人が上手から下手へはけていったと思って、しばらくすると、上手からさっきはあゆみを演じていた人が、今度は別の人との組み合わせで同級生の男の子役となり、別の女優演じるあゆみをいじめている…という形で、今度は下手したらわけ分からなくなりそうなところだが、それがそうでもない。背丈も個性も全然違う女優10人であるはずなのに、その個性が消されることなく、でも『中野あゆみ』という女性と彼女をとりまく人々の移り変わりがブレることなく表現されていた。

前半から中ごろまでは、上手→下手の動きだけだったのに対し、後半では下手→上手の動きで、中年期にさしかかったあゆみが登山しているという場面である。その登山の道程の中で、上手→下手へ向かう人の流れが現れ、そこで前半で見たようなエピソードを演じている、という構成になっている。上手から下手へと流れていくエピソードは、過去のエピソードの続きのようでもあり、また過去と同じようなシチュエーションでありながら実は最近の話であったりと、微妙に発展していて前半では分からなかった意外な事実が判明したりしていくのだが、その描き方が白昼夢のようで何だか不思議なのだ。

そして最初のシーンのように、10人が思い思いにセリフを口にしながら、次第にテクノっぽい音楽とともに踊り始め、最後は「最後のいーっぽ」といって舞台を去っていく。

「あゆみ」なだけに、作品で出てくる傘が靴べらだったり駅員の使うマイクが靴墨とスポンジが一体化したものだったり、、本やカメラがビーチサンダルだったりと、すべて足回りなのもちょっとしたシャレが効いていて面白い。

さて、冒頭で触れた挨拶文についてだが、キャラクターもストーリーもドラマもないかといわれるとそんなことなくて、人の一生なのだから、キャラクターもストーリーもドラマも全てある。
ただ、この作品で語られている女の一生と言うのは、平凡な女性の平和で幸せな人生のステレオタイプであり、いわゆる「演劇」が持っているような波乱万丈さとは無縁であることも確か。
それを、シンプルな舞台美術で、役者の至極真っ当な演技ときめ細かな演出を武器に、流れを止めることなく絶えず動き続け、時間や空間を行きかわせる複雑な構成でみせたことで、その面白さが際立ったのではないかと思う。

でも、個人的に今回の作品で、一番印象的だったのは、ズバリ端田新菜。
五反田団の「いやむしろわすれて草」「びんぼう君」などでのこども演技がやたらに堂に入っていた彼女だが、今回の作品でもその演技力を遺憾なく発揮。こども時代のみならず、思春期、
社会人、母親と、どの役をやっていてもすごくはまっていて、「大人になったな…」なんてなぜか母親目線。
特に良かったのが、高校生のあゆみが卒業していく先輩に思いを伝える場面。「好きだ」という思いをなかなか伝えられない姿に、今までにないぐらい感情移入して見ていた。
なお、このシーンは、客席の後ろの方から「きゃぁっ」という悲鳴のような声が聞こえてくるほどの胸キュンシーン。観客から声が上がるのが当たり前なのは歌舞伎とかオペラぐらいで、小劇場ではまずないというあたりから、このシーンがどれほど真に迫ったものであったかを想像していただければ幸い。
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by turujun | 2008-06-24 19:30 | 演劇
toi presents 3rd「あゆみ」@駒場アゴラ劇場を観るために、東急文化村前を通りがかって、ふと目に入ったこの展覧会。

時間には余裕があったので、ちょっと見てみようと思って立ち寄った。

細川真希を調べてみたら、GEISAI♯6での銅賞受賞を皮切りに、グループ展、個展で作品を発表、昨年の東京アートフェアでは出展作品が完売したという新進気鋭の画家のよう。

作品の一番の特長はなんといっても、細い貧弱そうな首に支えられたタテに見開いた目と開き気味の瞳孔を備えた大きな顔。アニメやマンガの中のキャラクターのようにかわいらしくデフォルメされたこの顔は彼女の自画像なのだそう。それが、日本や西洋のの名画の中に登場する人物のそれと入れ替わっている絵が何枚も飾られている。

正直なところ、自分自身が名画の中に登場したり、絵がアニメっぽかったりという特徴がはじめに目に付き、その特長部分だけ取り上げるとオリジナリティがある、とはいいづらいな…と思ってみていた。特に、「モナリザ」「最期の晩餐」フェルメールの「青いターバンの女」といった西洋の絵をモチーフにしたものは、どうしてこれをつくったのか?そうすることの意味って何なのだろう?というあたりが、見ていても今ひとつ自分の中に沸いてこなくて、ちょっと表現しがたい気分になった。

ただ、これも売約済のものなのだけど、彼女の絵が描かれた小さな紙をつなぎ合わせてつくったドレスは、絵の可愛らしさとドレスの形の可愛らしさのW乙女感とそこから溢れるもろさと繊細さにすごく惹かれた。

なお、この展覧会の絵は、このブログによると、ほとんどが初日完売だったらしい。

見た限り、確かにアートとしては一点モノであることを考えると決して高くはないかもしれないが、それでも小さいものでも20万、大きいものであれば50万円を上回るので、決して安いお買い物ではない。
にも関わらず、初日に「これ買うわ」と買える決断力と経済力。どっちもうらやましい。

とりあえずこれだけはいえる、ということ。わたしは絵に関しては、新しいアーティストの作品を見る感受性が足りないみたい。

【余談】こちらのブログに、私がいいなーと思ったドレスのオブジェの画像を含め、作品の画像がたくさん載っています。
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by turujun | 2008-06-24 18:00 | アート
梅雨前線が力を発揮しているのか、ほとんど終日雨降りな今日、よりによってどの駅からも歩く神奈川県民ホールへと向かった(最寄り駅は「元町・中華街」かと思いますが、それでも離れてる…)。私のツボにくるコンテンポラリーダンスを上演するホールはなぜこんなにも非・駅チカな場所ばかりなのでしょう?

さて、今回のデボラ・コルカー・カンパニーは、ブラジル-日本交流年&日本人ブラジル移住百周年記念イベントの一環として以前観たグループ・コルポ同様、日本初上陸を果たしたカンパニー。

 ダンサーが皆尋常でないほどに身体能力が発達していて、バレエ的なテクニックを駆使した動きができるかと思えば、組体操のような力強いフォーメーションを見せることもできる。さらには、バランス感覚も非常に発達していてダンサーの両肩の上に立ち、下のダンサーが方向転換して見せたり、何人ものダンサーが腕で橋を作り、その上をダンサーが歩いていく、なんてことまでできてしまう。
そんな鍛え抜かれたダンサー達が作り出す舞台は、前半・後半で全く違う世界を見せてくれた。

まず前半は、個のダンサーの優美さとコミカルさが同居した振り付けと、それがアンサンブルで展開されることで出てくる変化が楽しめる内容。
使われている音楽の明るさと、カラフルな照明が相まって生命力あふれる楽しい雰囲気のパートだ。

冒頭の女性ダンサーはロマンチックチュチュのすそにワイヤーを入れ、円錐状の形をキープできるようにしたスカートを身につけ、バレエでよく見られるようなステップや腕の動きを見せながらも、挙げた足を、ひざを曲げて足首をつかんだり、フワッと飛んだらそのまま倒れたりと、クラシックバレエとコンテンポラリーダンスの振りがミックスされたような動きが次々と展開される。

ここではクラシックバレエをはじめとするダンスのテクニックの確かさと、それに日常的なしぐさをもとにした振りが加わってくる。その動きは、今のコンテンポラリーダンスの中でもよく観られるものに近い印象を受けた。実際、日本のコンテンポラリーダンスの振り付け家を特徴付ける文章として「日常生活のしぐさを基にした振り付け」云々というものが見られるが、そのせいか前半部分については、軽くデジャブを感じてしまった。

といっても、日本のコンテンポラリーダンスが、セリフはなくともその間合いや視線と動きによって何らかの関係とストーリーを暗示していたり、表したいものが感情や内面の葛藤といった個人の感覚を元にしているのに対して、この作品ではそういった言葉豊かに解説できるものというよりはもっと抽象的なものを表現の根拠としているようだ。そのせいか、日本のコンテンポラリーダンスを観ているときによくあるような、何らかの物語やエピソード、関係の想像ということは少なくとも私の中には起こらず、むしろ目の前で展開される動きに、日ごろ馴染んだものを感じていた。
前半の途中でぴったりしたトップスにスパッツの、装飾の少ない動きやすさ重視なものへと変わる(これは、前半から後半へのつなぎのようなイメージのものだったのかも…と観終わってから思う)。
ここでは、基本大勢のダンサーによるユニゾンが基本となり、そこから何人か離れデュオパートを取ったり、いくつかのグループに分かれ、ユニゾンで行っていた動きを元にした新たな動きが展開されてだんだんと立体的な構成になっていく。その動きは、バレエ的な要素というよりは、床の上で足を上げたり、床を滑っていったり、肩立ちをしたりと床運動のような動きがメインになっていく。その中でもそのユニゾンの動きと、その動きから新たな動きが発展的に発生していくさまが滑らかであるところと、その発展した動きが面白かった。

さて、休憩を挟んで後半は、ポスターでも使われている大きな鉄の輪が舞台中央に設置され、照明もブルー系のクールかつ幻想的な雰囲気のものへと変えられている。
ダンサーの衣装も、女性はチューブトップのレオタードの腹の部分をくりぬいたような形のもの、男性は上半身裸の白いズボン姿と前半の冒頭とは打って変わったミニマルなものへと変わっている。

そしてそこで展開されるのは、個々の振り付けというよりは、組み体操の要素を多く含んだアクロバティックな動き。中央の鉄の輪にダンサーが飛び乗り、そこで動き始めると、どうしてもそのスリリングさに目を奪われるが、実はその輪の前のフロアでもダンサーが身体能力を発揮した動きを展開している。
それはもう、シルク・ド・ソレイユか!?というぐらいのもの。実際、シーンのそこかしこには「これって『ドラリオン』でも見たような…」と思うような曲芸的なシーンがあった。また、ラストシーンは、これを「シルク・ド・ソレイユ」だよ、といって見せたら信じてしまいそうなぐらいのファンタジックさと興奮がないまぜになったパフォーマンス。チラシに載っている、ダンサーが何人も背中を丸め、ひざを棒にかけた状態でいる写真がまさにその場面なのだが、それが実際に輪が回り、ダンサーが揺れ、左右から当てられた照明によりできる影が背後の壁に影を落とすと、あたかもそれが夕暮れ時の遊園地の観覧車のようで、一気に郷愁をそそられてしまった。

とはいえ、シルク・ド・ソレイユがエンタテインメントショーとしてその内容を構成しているのに対し、この作品はエンタテインメントの要素はありながらも、そこには明確に言語化できるストーリーはない。実際、舞台上の建造物以外のところで展開される動きは前半とは打って変わり、複数の人間を動きの基本とした抽象的な動きが中心に展開されていた。ダンサー達からは、前半ではまだ感じられた「個性」が拭い去られ、全てのダンサーが舞台上のシュールな金属の建造物の中で繰り広げられる世界の一つのパーツと化していた。そして完全にダンサーがパーツと化したからこそ、最後の観覧車っぽくなるシーンが可能になったのだ。

ところで、このダンスの中においてダンサーの人間っぽさが払拭され、作品のパーツのような扱いになるのは、グループ・コルポも同様だったのだが、それはそういう傾向があるのだろうか?
一体どうなのでしょう?


【参考】
今回の作品の抜粋がYoutubeにあがっていた(こちら)。実物はもっと魅力的だけど、雰囲気は何となく分かります。
【余談1】
私の前の席と右隣の人が、前半だけで帰ってしまっていました。がっかりしてしまったのでしょうか?勿体無いことを。これは前半も面白いけど後半を見てナンボであるように私は思います。
【余談2】
私の席の後ろに大学生らしき若い男子3人が居座っており、彼らが開演直前までダベッていてうるさいこと。当然イラッと来ていた私ですが、どうやら彼らは授業の一環でこれを観に来ていて、感想を原稿用紙4枚以上というノルマを課されているようだと分かりちょっと同情しました。こういうのは自主的に来てこそ楽しめるからね…。なお、上の文章は彼らに対抗し、400字詰め原稿用紙4枚以上を目指して書きました。
【余談3】
基本バレエ&体操がこの作品の動きなのだが、後半に一瞬カポエイラとヒップホップの要素が入ってきた(でも本当に一瞬)のは、そこがブラジルっぽさだからなのでしょうか?ちなみにグループ・コルポはヒップホップやカポエラを取り入れているらしいです。
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by turujun | 2008-06-22 15:00 | ダンス
最近、未見の劇団を発掘してないなーと思っていたので、新規開拓するべく、本公演へ。

場所はサンモールスタジオという場所。要はシアターサンモールの地下にある小劇場。存在は知ってはいたけど、実際に足を運んだのは今回がはじめて。

(以下ネタバレあり。ご注意ください)






開演時間を誤認しており、到着したのは開演後(すいません…)。階段の下に折りたたみ式の小さな机と、そこにマンガがおかれている、というディスプレイを目にしながら、劇場へと向かう。
なぜマンガ?という疑問を持ちつつすばやく精算し、座席へと案内されると、舞台を挟むようにして座席があることが確認できる。

舞台上にはいくつかのちゃぶ台のような机があり、その上にはマンガとスナック菓子がおかれている。床もマンガだらけ。パッと見五反田団の舞台セットかと見まごう程のグダグダ状態ながらも、一線を隠すのは上手の壁から床の上を伝って下手の方へ放射状に広がる赤い紐、そして舞台中央にある赤い丸(ラストの方にならないとその存在は分からない)。

そして舞台上の役者は皆マンガを読んでいる。その場にいる人達はいかにもイマドキの大学生といった感じ。
そこで繰り広げられるやり取りの中から、ここが大学のマンガサークルの部室であり、時はまさに大学祭当日であること、大学祭であるにもかかわらず、そこにいる人達はただマンガを読み、そこにいる人同士でダベっていること、そのサークルの活動内容は一人は実際にマンガを描いているものの、残りの人は特に積極的に捜索をしているわけではなく、かつメインは二次創作の同性愛モノということや、サークルのメンバーは女性が大半で、男性はわずか、ゆえに女性上位であることが明らかになってくる。
最初は一見仲良さそうでありながらも、話が進むにつれて、その仮面ぶりが明らかになり、サークルが瓦解していく…というのが主な内容。

一番はじめに目についたのは舞台上の乱雑さではあったものの、次におっ!と思ったのが、女性陣のルックスのよさ。何だこの粒ぞろいぶり。対岸の座席が男性が多い理由も頷ける…(偏見でしょうか?)。

そして明らかになる、メンバー同士のキャラクターの設定とそれの表現の仕方、うっぷんや思惑が表面化し、仮面仲良しが崩壊していく過程で示される感情が突き動かす諍いの数々のリアルな描き方にびっくり。びっくりというのも何だが、理論ではなく、感情と理屈だけが行きかうやりとりの連続のなかに、それぞれの性格や志向が明確になっていくあたりがすごく印象に残る。
特に、サークル内恋愛禁止ルールのある中で、OBである院生と現役メンバーが付き合っているところが判明するくだりのエゴ丸出しのやりとりは、「こういうケンカってあるよな」と思える内容だった。

リアルな演劇の描くところの常として、「ダメな人」というのは多い。だがそうした作品の創り手は往々にして男性ばかり。でも、今回の作品は演出は男性みたいだが、作および主要な出演者は女性。女性の、女性による「ダメな人達」演劇と呼べるのかも…なんてことを思った。


【余談】
会話のイヤーな感じ加減からポツドールが連想され、終演後すぐに劇場座席後ろの扉が開き、観客が出て行き始めたので、てっきりカーテンコールなしなのかと思い、私も劇場を出てしまった。「こんなところもポツドールっぽい…」なんて思って階段を上っていたら、背後から拍手が。カーテンコールはあったみたい。ちょっと巣の状態になった役者は見てみたかったかも。
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by turujun | 2008-06-21 19:00 | 演劇
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先日行った献血ルームで、献血後に出会った「バガボンド」。うっかり読み出したら結局そこにあった20巻全て読みきってしまった。献血自体は上手くいかず、途中で断念したくせに、何ともずうずうしい客と自覚しつつも…面白いんだもーん。その後も折を見て続きを読み、最新刊26巻まで全て読破。
私はマンガを読むのは早く、通学・通勤に時間がかかるようになった20代以降はすっかりご無沙汰していたので、マンガにはまるのは本当に久しぶり。

そんなわけで、興味があった「最後のマンガ展」。某ブログで「平日は当日券ですぐに入れる」云々とあったので今日行ってみたのだが、とんでもない。入場制限していた。入場するまで30分待ち。ひええ。
今週発売のBRUTUSで特集されたからなのか、それとも「SLAM DUNK」「バガボンド」人気がすさまじいのか。どちらにしても、驚き。

客層は、というとだいたい20代前半~30代と、「SLAM DUNK」をリアルタイムに青春時代に楽しんだ世代がほとんどの様子。つまり普通の美術館の展覧会に比べると非常に年齢層は低い。見た感じ、いわゆるアート大好き!という感じの人はほとんどいない。また「マンガ」とはいえマンガオタクという感じの人もほとんどいない。つまり、アート系でもなければマンガオタクでもない人達がメインであったように思う。

「最後のマンガ展」と銘打っている通り、展示されているのは全館を通してマンガ。展示自体が一つのストーリーをなしており、順路に沿って歩きながらその絵を見るとともに、マンガを読んでいくという構成だ。
だからといって単なる原画展ではないところがこの展覧会の面白いところ。展示全てが一つの作品であると同時に、絵が書かれている紙の材質を変えてみたり、絵を描く道具がペンであったり筆であったり、紙そのものの形が違ったり、サイズが違ったりと一つ一つの絵がまた作品として独立して存在してもいる。
また、高さを変えてあったり、照明の色味が微妙に違っていたり、展示室の床半分に砂が敷き詰められていたりと展示の仕方にも工夫されている。

展示されていたものが今回の展覧会用に描きおろされているとはいえ、印刷した状態のものでは知りえることのない、生々しいタッチやダイナミックな筆致を間近に見ることができる。

観ている間、ただひたすらに「井上雄彦って絵が上手い」ということに驚かされ続けたこの展覧会だが、特に前半部分に展示されている霊験洞(だったと思う。うろ覚え)にいる宮本武蔵のシルエットが描かれたものは、その霊験洞の暗さと、その中に浮かび上がる宮本武蔵の影が見事に書き分けられていて目を瞠った。

ストーリーの面では、「バガボンド」のエピローグ的な内容なので、今出ているところまで全て読んでおくと、グッとくるけど、そうでないと全くといっていいほど意味をなさないと思われ。(実際、井上雄彦氏もバガボンドを読んでから見ることをすすめているらしい)

個人的には、一度全体を見てから、もう一度他のお客さんと監視員の目をかいくぐって最初から見直してみることをおススメする。

a0001606_22145618.jpg展覧会の常として、展示室を出るとそこは物販スペース。いろいろ売っていることは売っているが私が一番欲しかったのはこのスタッフTシャツ。スタッフの人、いいなー。
(この画像は、入場町の列で私の前にいた人がスタッフに声をかけてくれたおかげで撮ることができたもの。どなたかは存じませんが、便乗させていただきました。ありがとうございます。)






【余談】
チケットぴあで購入したチケットは入場する際に、当日券と同じデザインのチケット(井上雄彦氏による武蔵のシルエットがど真ん中に描かれたもの)
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に引き換えてもらえます。
私の後ろに並んでいた人が「チケぴで買ったやつより当日券の方がいい!!」と叫んでいたので、同じ心配をされている方がいるやもと思い、ご参考まで。

こういうことってあまりないと思うのですが、チケぴの味気ないチケットより、デザインがキレイなものの方がお客さんとしては嬉しい。他のアートの展覧会や舞台でも、こういうサービスをすると、すごく受けると思う。

チケットだけではなく、入場前・入場後のエリアに設けたQRコードで携帯から情報を取れるようにしたり、感想が送れるようにしたりと退屈させない仕掛けがされていた。
ものすごいサービス精神。
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by turujun | 2008-06-18 22:52 | アート
タイトルが島崎藤村の小説を彷彿とさせるけど、今回の作品はウィリアム・サローヤンの戯曲を誤意訳(これは訳・演出の中野成樹による造語)したもの。これに加え、今回はこの「おーい、救けてくれ!」の前日談を上演していた。この前日談は乞局の下西啓正が執筆している。さらに、10分の休憩をおいて、出演者によるオリジナル曲の演奏まで行われた。つまり全部で3部構成と盛りだくさんだったというわけ。


本編と、前日談が全く異質なものであったことが非常に面白かった。
前半は、どうにかして拘置所から逃げ出そうとするギャンブラーである若い男が、パートタイムの若い女をああ言えばこう言うで口説き落としていくさまが面白いポップな会話劇であるのに対し、後半は本編の最後にちらりと出てくる夫婦の愛憎劇。
本編が(結末はさておき)軽快なアメリカンコメディであるなら、後半は昼ドラはたまた往年の大映ドラマ!?というほどのネチネチジメジメぶりと対照的。
同じ話のキャラクターを使っていながら、全く質の違う話にしてしまい、なおかつこんな流れがあるとしたら、本編の結末は実にありえると納得のいく作りになっていた。

舞台の上手側には何も置かれておらず、一方下手側および舞台と座席の間には一部のスペース(そこが拘置所の中という設定で”若い男”がいる)が空いているほかは、すべて長い釘が、先端を上にした状態でズラリと並べられている。いかにも厳重な警備がされている場所という雰囲気をかもし出していた。
(現実的に、うっかり転んだりしたらちょっと怪我するではすまされないよな…と思うような状態なので、劇の後半で男女がもみ合うシーンでは、もみ合い方が非常に緩かった。)

続きは後ほど。
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by turujun | 2008-06-15 15:00 | 演劇