舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2008年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

面白いといううわさを聞いて、気になっていた椎名泉水。今日、彼女が作・演出を手がけるStudio Saltの公演「SOMEDAY」へ足を運んでみた。

作品が始まってから気づいたのだが、この作品にNEVER LOSEの谷本進氏が客演していた。確かアゴラでNEVER LOSEを観て以来なので、ずいぶん久しぶりな感じ。本拠地ではこんな感じなのに、今回はいたって普通な妻子もちのおじさんを演じていて、しかもそれがちゃんとはまっているから意外。


この作品の舞台はどうやら逗子のあたり(作品中で「小坪に住んでたから…」というセリフがあったのと、海の近くの喫茶店が舞台なので)。
設定としては40になりかけぐらいの人々の話。

いろいろなごたごたがあっても、どことなく甘酸っぱく切なくもさわやかな結末を迎えられるのは、湘南パワー(セリフに「小坪に住んでいて…」というセリフがあったので、ここは逗子か葉山?だとしたら厳密には湘南ではないけど、そういうニュアンスでセットがデザインされていたので)のなせるところなのだろうか?といいたくなるぐらい、地の持つイメージをちょとあざといぐらいに盛り込んでいる作品だ。

上にも書いたとおり、NEVER LOSEの谷本進が今回演じた役は、実際の年齢よりは上という設定、NEVER LOSEで演じる役と比べると10歳以上違うんじゃない?(以前観た作品がかなり前だから何とも言えないのだが…)というところなのだが、髪の毛が黒いのもあいまって、17歳の子持ちで、しかも子供とのコミュニケーションがイマイチちぐはぐな、門限にうるさい父の顔と、不意に思わぬ過去と思わぬ事実を知られて困惑している夫の顔、友情と佐野元春を大切にする一人の人としての顔を持つ人物を意外なくらいに好演していた。
彼の学生時代からの友達役を演じた人々は、全てStudio Saltの劇団員なのだそうだが、当て書きをしているのかもしれないが、非常に一人ひとりキャラクターに嵌っていて、それぞれに違った面白さの個性がある。また、劇団員ならではのチームワークのよさがにじみ出る感じがまた良い。モダンスイマーズといい、MONOといい、「劇団員のチームワーク」が感じられる舞台は観ていてほっとする。
一方、この作品の毒の部分をになっているのは女性であるように思えた。男性のキャラクターの作り方に比べ、本音と建前が明確に感じられ、より残酷でしたたかな側面が見え隠れするように作られていたように思えるのは気のせいだろうか?

内容は、「東京の舞台でこういう話を書く人ってあんまりいない」という感じのものだった。
作・演出の椎名泉水が当日パンフの内容から察するに、東京の小劇場界隈で活躍する世代と一回りぐらい違うということがその理由かと思われるが、東京の人々(荒っぽいくくりだが、とりあえず)に比べると、書くテーマといい、描き方といい地に足が付いている。
舞台の設定ゆえにTVドラマでこういう話がありそうな気がしないでもないのだが、夫婦の関係や親子の関係、友達同士などの人間関係軋轢とその回復を描く今回の物語のテーマ自体は普遍的なもの。それを演劇的に尖がりすぎず、かといって旧来の表現に固執するでもなく、観ていて安心できる形でみせるこの劇団の表現は、定義しやすいものではなく、また定義されたところで派手にもてはやされる類のものではないけれど、一種独特といって良いのでは。

若い人よりは、40代前後の人が観ると思うところの多い作品ではないかと思われ。
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by turujun | 2008-05-30 23:17 | 演劇
相手を賛美することで、徹底的にけなしたおす「反語法」。反語法と言うと「いわんや~おや」という古典のあれを思い出す私だが、ここでいう反語法というのはロシア語でよく使われるものだととある記事で知り、その良い例としてこの小説が挙げられていたので興味を持ち、読んでみた。

そうしたら、これがめっぽう面白い。約400ページぐらい本であるにもかかわらず、隙を見ては本を開いてあっという間に読んでしまった。一旦読み出すと次が気になって本当に読むのをとめるのが惜しいほど。ってシドニィ・シェルダンか。

内容は、主人公である元ダンサーの女性・志摩が、子供の頃のダンス教師であるオリガ・モリゾウナとその友人でフランス語教師のエレオノーラ・ミハイロヴナにまつわる謎を、奇跡的ともいえる親友との再会と、多くの協力者との出会いを経て解明していくというもの。

小学校時代のエピソードと、謎解きで出会ういろいろな人々と事件、そして収容所でオリガ・モリゾウナとエレオノーラ・ミハイロヴナと一緒にいたという人物の手記や証言をもとに構成されているこの本は、そのエピソードの一つ一つが面白く、また志摩とその親友カーチャの友情の深さが心温まる一方で、登場人物が巻き込まれたスターリニズムの台頭や冷戦といった時代の荒波が生んだ多くの悲劇に戦慄してしまう。その緩急がたくみなのと、話が核心に近づいたところで時間切れになったり、相手の体調が著しく悪化したりと良いところでお預けを食らわされてしまう巧みな構成についつい引き込まれてしまった。
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by turujun | 2008-05-25 16:34 | 書物
青森を拠点として活動する渡辺源四郎商店。主宰の劇作家・演出家・俳優の畑澤聖悟は、現役の高校教師で、自身が顧問を勤める高校に戯曲を提供したり、指導して全国大会で優勝したりと本業の方で活躍しつつ、自身の劇団でも精力的に作品を発表している。パワフル。

そんな劇団の作品を今回初めて観てきた。

主な登場人物としては、中年の男性と、老人(ショウジさん)。二人は娘婿と舅の関係で、娘はすでに他界しているが今も同居している。
その日はショウジさんの誕生日。寿司やお酒とご馳走、そして互いに秘密の何かを用意していることを感じさせながら始まる。

そこへ主演の二人を中心にいろいろな人が入れ替わり立ち替わり登場して話が進んでいく。

舞台上にはダイニングキッチンのセットが組まれている。ダイニングテーブルはもちろんシンクや冷蔵庫までが廃材と思しき木材で作られている。そのせいか妙な手作り感はありながらも不思議と暖かい雰囲気が醸し出されていて、それが面白い。

「静かな演劇」の範疇に入る作風ではあるものの、ショウジさんをはじめとする登場人物に(ローカルタレントという設定があるからかもしれないが)わりにコミカルかつ地に足の付いた人が多い(ここで私がいうところの「地に足のついた」は、目標を持って日々を生きているとか、自分の役目を果たそうという思いを抱いて生きている、というような意味)。これはやはり主人公がそれなりに年配という設定があるからなのか、それとも作・演出が現役教師だからなのか。
作品に派手さはないが、「from青森」の矜持を強く感じさせる佳作だと思う。


※※以下ネタバレあり※※


この作品は、若年性痴呆を主人公が患ったことにより、互いの思いのこもった贈り物が互いに受け取れないような状況に置かれている事実が判明する結末をさらに重く、苦しいものにしていく。
そんなこの作品を救うのは、主人公を囲む登場人物の可愛げだ。特筆すべきはショウジさん役の宮越昭司の存在感。御年80歳、名前がカタカナ標記だと役名とおなじショウジさんは、とても可愛らしくかつひょうきん。方言まじりなセリフ回しもあいまって、愛嬌溢れるおじいさん役を好演していた。また、他の出演者もそれぞれの役どころにちゃんと見せ場があり、そこでそれぞれのチャームをみせている(個人的には「じょんじょん・じゅんじゅん」がツボ)。それらが、この作品を重く暗くなりそうなところから救っている。

【余談】
劇中に「地元のCMソングを歌う」という場面があり、主宰の畑澤聖悟が歌声を披露するのだが、なかなか良い声を披露していた。本業が高校教師といいつつ、ものすごい髪型なのでこれで大丈夫なのか?と思ったらこちらに実際の姿が掲載されていました。これはこれでなかなか迫力のあるルックスではありますが。

【余談2】
終演後、劇場を出るべく階段を上りきったところに、宮越さんがいらっしゃり、「ありがとうございました」と挨拶をしていた。急な階段を上ってよっこらしょ、と思ったところでいきなり挨拶をいただいたので、こちらも笑顔で「ありがとうございました」と返した次第。実物も非常に素敵。主宰の畑澤聖悟も当パンに書いていたが、あんな風に年をとれたらいいなあ…と思う。
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by turujun | 2008-05-25 15:04 | 演劇
客演に萩原聖人を迎えてのほぼ1ヶ月のロングランという本公演。

かつて日暮里で肩にカラスの刺青を入れ「八ガラス」と名乗って悪さをしていた一団が訳あって青森のビジネスホテルに滞在している。そこへその元メンバーが呼び出され再会する。元メンバーは青森でりんご農家を営んでおり、悪事からは足を洗ったつもりでいる。そんな彼に一団は、一緒に東京へ戻るよう言う。そこへやってきたビジネスホテルの従業員がひょんなことから監禁されてしまう。
そんな状況の中、時間がたち会話が進むにつれ彼らの過去と、今回の行動の真の目的が明らかになる…という話。

はじめは普通の男性+チンピラ+引きこもり風がいるところに方言丸出しのりんご農家の人がやってくるという設定の不思議さに「?」マークが飛び、それは中盤ぐらいまで話が進むにつれ増えていく。しかし、話が進むにつれそれぞれの意図の違いが明らかになったり、意外な要素が明らかになるなどして、その疑問が次々と明らかになり、こちら側の想像をすっきりと裏切りながら展開する段になり、その疑問は解決し最後はちょっとできすぎなぐらい良い結末を迎える。

モダンスイマーズの役者陣は人間的にどうよ?と思うようなこすっからさを持つ一方で孤独が耐えられなかったり、引きこもりであったり、自分の犯した罪の重さに耐えられず逃げ出した過去があったりと何らかの暗部を持ちながらも、生き方を模索しているキャラクターを手堅く演じていた。
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by turujun | 2008-05-22 20:56 | 演劇
ひさびさに観た風琴工房。今回は水俣病を取り上げ、前半は水俣病発生当時のチッソ内の暗闘を、後半では水俣にある共同作業所を舞台にそこに通う水俣病患者とそこに集う人々の姿を描き、障害を持つ人と、社会とのありようを問う作品だった。

この作品のポイントは何といっても水俣病を加害者・被害者どちらか一方だけを描いているのではなく、その両方を取り上げたというところ。そして前半で加害者の中心人物を演じた役者が後半では共同作業所の利用者を演じているというところだ。
しかも、役者がその患者を演じている後半の劇中で「水俣病患者が一番嫌がることは真似をされること」と語る場面を入れている。演じることは真似ることと繋がるだけに、劇中内で「やってほしくないこと」と示しながらその実そのことをやるという、一見矛盾していることをやってのけるのは上演する側としてはかなり勇気のいることだったのではないだろうか。
それを成功させたのはやはりこの難しい二役を演じた客演陣の力なのだろうと思う。

客演陣の力量がこの作品を深みのあるものにしている一方で、この劇団の若手が大挙出演する後半はそのギャップゆえに惜しいことになっていた。。前半はほとんど客演陣による会議の場面のためそんなには気にならないが、後半になり若手劇団員が登場すると、必要以上に声を張ってセリフを言う声が非常に耳につく。それが一人なら良いのだが、若い劇団員のほとんどがそうなのと、互いが声を張り上げてせりふを言うのが相乗効果になるのか、その傾向がどんどん強まっていきどんどん声が耳障りな響きをもって大きくなっていったので、話云々以外の部分でちょっと苦痛ですらあった。

そんなふうに若干ダメージは受けてはいるものの、若手を重要な役で出演させるあたりが、劇団のやる気の表れなのだろうと思いもする。今回の作品のテーマやこういうところに「演劇」に真摯に取り組むこの劇団の姿勢が感じられる。
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by turujun | 2008-05-18 15:00 | 演劇
講談社主催第二回大江健三郎賞を岡田利規氏の「私達に許された特別な時間の終わり」が受賞し、それを記念した公開対談が行われた。

この対談の観覧は公募で行われていたので、ふと申し込んでみたらまんまと当選。

19時以降は入場できないということだったので頑張って早め到着したところ(といっても開場時間より少し遅い)、すでに会場内は半分以上埋まっていた。
観客のほとんどは大江健三郎目当てと思われる人。知名度からしてそれは全く不思議ではない。しかもかなり熱心なファンであるようで、メモを取りつつ聞いている人の多いこと、多いこと。(めがね着用率も非常に高かった)

でも、あの話の内容は、少なくとも「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読んだ人でないとメモなしには理解が難しかったかもしれない。

対談は基本的に大江氏が岡田氏の受賞作品の内容や先日上演された「フリータイム」をもとに自説を語り、そこから岡田氏に質問をし、岡田氏がそれに回答する形で進められている。
対談と言うのはえてしてそうなのかもしれないが、たとえテーマがあっても、相手がどんな球(質問)を投げかけてくるのか、実際その場になってみなければ分からないものなのではないだろうか。それに対して適切な回答をしなければならないというのはかなりのプレッシャーだったと思う。

大江氏は、やはり作家だからなのだろうか、この「わたしたちに許された特別な時間の終わり」に対する読み込み・理解が深いというか、作品を解説する言葉が非常にぴんと来るものが多く私が言語化で来ていなかった部分にフィットする解説を聞けたのは、収穫だった。
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by turujun | 2008-05-09 19:00 | その他
「道場破りとは、魅力的と感じるダンサーの手法に接近し、その道に深く触れることで己の道を破る試みである」(道場破りshowing第2期/後半戦チラシより)

という、このイベントを観るため、初めて藤野の地に降り立った。
一言で言うと、神奈川県であるはずなのに、大変な田舎。高尾から2駅入っただけで、「ザ・里山」的な風景が広がる。地元の人によると、ここから都心へ通勤している人もいるとのこと。
「それもいいかも」と一瞬思ったが、1時間に2本しか電車が来ないという事実を知ったとたんに即却下(自分の中で)。でも、時間の融通が利く人なら住むのにも良いところだと思う。

さて、ショーイングが行われた会場「篠原の里」は駅から車で15分くらいのところにある元小学校。建物は鉄筋2階建てなのに、屋根は瓦葺、グラウンドの傍らにはなぜか見ざる言わざる聞かざるがいるという、可愛らしくも不思議な場所。

そこの2階にある元・教室に座席が設置されてショーイングが行われた。
このイベントは2日に分けて行われており、前日に手塚夏子・捩子ぴじん・中村公美の手法、私が観た回では黒沢美香と山賀ざくろの手法で展開された。

構成としては、まずスクリーンに各ダンサーの手法が映写され、それにあわせ手塚が解説を加え、そこにダンサーが補足する。が、この回のダンスのデモ順がどちらも1番手が手塚だったため、手塚はてんてこ舞いの体となっていた…主催者と出演者の二足のわらじはちょっと厳しそうだった。

その後、手法を提示したダンサー以外による手法の実践が行われ、その後本人による模範演技(?)が行われた。

私は今回のこのイベントの全ての参加者の作品を観たことがあったわけではないので、他人の手法を踊っているダンサーが日ごろ自分の手法でどんな動きをしているのか分からない部分が実はあったのだが、それでも非常にきになったことがある。それは皆良く動くということだ。私が作品を観たことがあるダンサーに話を限ってみても、参加者は皆そんなに激しく動く作品を作る人達ではない。であるにもかかわらず、必要以上に多く動いているように私には思えた。
 GW中「篠原の里」で合宿していたとはいえ、通常の作品を作るよりずっと少ない時間でショーイングを行うこと、またその限られた中で他者の手法に踏み込んでいき「見せるもの」を作るということは、自分の手法でやるとき以上に「見せられるもの」としてのダンスへ到達する手ごたえが得られにくいのではないだろうか。それがショーイングでの「多動」(と書くと印象があまり良くないが…)に繋がったのでは…と思いながら観ていた。
これとは別のところで面白いと思ったのは、山賀ざくろの手法を踊った黒沢美香。舞台スペースを縦横無尽に使い、自分の作品では決してやらないようなバレエやジャズダンスのようなムーブメントを次々と展開し、ときどき良くマンガに描かれているような、思春期の女子が部屋で妄想にふけっている姿のような振りをしていたものが面白すぎる。日ごろの黒沢作品ではたいてい白塗りメインのごっつい化粧なのに対し、今回は素顔なのもあり普段より若く見えるのも手伝って妙なリアリティがあるのもポイントだった。
遠路はるばる行った甲斐があるってもんな瞬間だった。

あと、金魚の鈴木ユキオ&安次嶺菜緒調理の昼食がまた美味しかった。ダンスだけじゃなくて料理もうまいのね。
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by turujun | 2008-05-06 13:00 | ダンス
特別な予定なく過ごしていたGW、これではあんまりなので東京都写真美術館で開催されていた「マリオ・ジャコメッリ展」へ足を運んだ。

その理由は…すいません、チケットショップで会期終了を間近に控え、投売りされていたから。

でも、この値段だけの選択であるにもかかわらず、思った以上の満足を得た。

東京都写真美術館という会場からして、写真の展覧会であることは間違いないのだが、そこに展示されていた作品は、現像の技術により単なる写真からさらに変貌しているものが多く見られる。
全ての作品はモノクロだが、現像の時点で明度のバランスを極端にし、版画のようにしたり、陰影を飛ばして人物の姿が強調されるようにしている。それにより、写真から余計な情報が取り除かれ、より詩的な表現へと近づいていているようで、そこが面白い。

撮影している被写体は人物もあれば植物もあるし、静物もあるとさまざまなのだが、その選択の基準は一般的な美しさにはない。ジプシーの子供や、イタリアの地方で昔ながらの暮らしを続ける人々、ホスピスの人々や神学校の学生など、きらびやかさから遠く離れたものばかりだ。
そしてそれらを納めた写真のほとんどは現像の加工により、躍動感や生命の息吹といったものが封じ込められているような作品へと仕上げられる。
そこには、死が生と切り離すことができないことを示すかのように提示されている。

個人的に一番気に入ったのは「私には自分の顔を愛撫する手が無い」の作品群。雪原で戯れる神学生の姿とタイトルがほのめかす彼らの未来の間にある絶望が焼き付けられているように思えてくる。
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by turujun | 2008-05-05 13:00 | アート
久々に映画鑑賞。

雑誌での評価が非常に高いこともあり、この映画は気になっていたものの、いつ見るというのは決めていなかったのですが、先日たまたまシネスイッチ銀座前を通りかかったときに時間が合ったので、ふらりと入ってみた。


この物語の登場人物は、スタンレーとその二人の娘ハイディ・ドーン。母親はイラク戦争に出征している。ある日、その母親がイラクで戦死したことを知らされるが、スタンレーはその事実をなかなか娘達に言い出せないでいる。本人もショックを受ける中、なかなかその話を切り出せずにいるうち、父親は娘達を連れて突如旅に出る。その道中で起こるいろいろな事件を経て、最後に父親が母の死を娘達に語り、その事実を家族全員が受け入れていく様を描いている。

アメリカ軍はイラクに駐在しており、実際にアメリカ軍の戦死者の中に女性がいる状況にある現在、この話は決して起こりえない話ではない。一歩間違えば反戦映画になるであろうテーマであるにもかかわらず、この映画はそうではなく、あくまで家族の再生を描いた作品になっている。
そうなりえた理由としては、まず単純に映画の中で明確にこの戦争のことを語る場面というのが出てこない(冒頭にハイディがイラク関連のニュースを見ていること、スタンレーが出征者の家族によるグループセラピーに参加している事ぐらい)ことがある。
また、登場人物の一人の目を通してではなく、そのシーン一つ一つを第三者の目で見るかのように描いているので、そこに誰か一人の思想や観点が入り込むことがない。それにより、この映画は家族の関係の変化という、より個人的な面に焦点を合わせた映画になったのだと思う。

そういうことを考えると、直接的な言葉をできる限りさけ、それぞれの場面でのさりげない日々の会話の言葉で関係の変化を徐々に描いていっているこの映画の脚本といい、それをきちんと形にしている演出といい、本当に良い(この映画の監督は脚本も自ら手がけているそうです)。

地味だが、丁寧に作られた作品。最後のシーンで思わず落涙。小説や演劇では、それがどんな作品であれほとんど泣かないのに(除:「父と暮らせば」)、映画だと結構泣いてしまうのはなんでだろう?


【余談】この作品に出ている子役二人は、ともに映画初出演とのこと。とりたてて美形という感じはしないのだが、見ているうちにじわじわとくるキュートさが伝わってくる。
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by turujun | 2008-05-03 14:23 | 映画