舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2006年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

※ネタバレがあるので、読まれる方はご注意ください。
雨の降りしきる中、横浜は赤レンガ倉庫へ行って来た。

雨ということもあり、赤レンガ倉庫は、いつものにぎわいがなく、どことなく寂しげだった。

ワールドカップ開催間近ということもあり、その関連の施設が敷地内に作られており、今日はそのプレス発表会ということで、…まっすぐ1号館へ行くことができなかった。
今日のチケットはソールドアウトしていたので、当日券を購入する気でいた私にとって、当日券発売開始時刻よりすでに遅れていたこともあり、その遠回りの時間ももどかしかったのだが、結局無事購入できたので、まあ良しとしよう。

正直なところ、「トーキョー・ボディ」や「東京/不在/ハムレット」を観たときのような驚きが、今回の作品にはなかった。というかこれらの作品にあったエッジィさがこの作品にはなかったことが驚きであったといえる。

内容としては、ここにプロットがあるのだが、このプロットから受ける印象と実際の舞台はかなり違う、ように私は思った。このプロットの中では、主人公・忠雄自身の中にある、芝居に対する何か、を謎としているようだが、実際の舞台では、その謎そのものよりも、妻である真知子に対する疑念の方を問題にしているように思えた。

今回の舞台の出演者は、多くが新劇の人のためか、役者がものすごくキッチリと舞台の上で立ち、きっちり台詞を言っていた。そのせいか、作品そのものも、演劇のルールによって統制されているかのように見えた。
舞台上には、これまでの作品に出てきたような「だらしない」人もいるわけだが、その一方で、そうしたしっかりと立ち、きっちりと台詞を言う人がいることで、そのコントラストがより際立ち、結果として「演劇的な部分」が際立つことになっていたように思う。
また、台詞の言い方も、(役者によってレベルは当然違うのだが)、これまでの作品に比べて「演技している」という感じが強かった。
この作品は「演劇的であるということ」を意識的に行ったものと言えるのかもしれない。


以下、観ていて気づいたことなど。

今回の舞台美術は「ロマンチカ」の人だったそうだ。あまりそれっぽい雰囲気はないが、鶴見のバイク店というには、60年代のアメリカっぽいオサレ感が微妙に漂うセットだったと思う。

舞台の正面にシャッターがあり、そこを開けると舞台の奥の方に進める通路になっているのだが、その通路部分は私の席からでは見えなかったので、少し残念。

役者の台詞の言い直しが結構目だった。


舞台とは関係ないのだが、当日券を買うときに、「出演者の方で関係者はおりますか」と聞かれた。ここで、「こういうことはやめましょう」ということを再三言っているのだが、遊園地再生事業団のようなベテランといえるところで遭遇したので、かなり驚いた。
これに対して、私は素直に「いえ、いません」といったのだが、仮に「います」と言った場合、「関係者レート」とか「関係者シート」が適用されるみたいなことがあるのだろうか。また、「います」といってある役者の名前を出した場合、それをわざわざ確認するのだろうか?確認したとして、「そんな人知りません」と役者が言ったら、その場合どうなるのだろうか。ちょっと気になる。
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by turujun | 2006-05-27 14:00 | 演劇
先日、東劇で鷺娘・日高川入相花王」を見た時のこと。
普通の映画と同様に、予告編がいろいろと出てきたのだが、その中に、太平洋戦争を題材にした映画「出口のない海」の予告編があった。この作品の主演は市川海老蔵。というわけで、予告編も海老蔵・海老蔵・海老蔵…だったわけだが、戦時中が舞台の映画にしては、海老蔵が非常に健康的に見えたので、「だいじょうぶなのだろうか、この映画…」と思ってしまった。まあ、いろいろ事情はあるのだろうが、いくら主人公が野球選手とはいえ、体格が良すぎるとあまりリアリティを感じられないなあ、と思ったのである。

そんな非常に男らしい体躯の持ち主である市川海老蔵が「藤娘」をやる、とあって、別にファンではないけど、興味本位で観て来た。

私が観た夜の部の演目は以下のとおり。
傾城反魂香
(けいせいはんごんこう)
上、保名
(やすな)
下、藤娘
(ふじむすめ)

このように、3演目みたのだが、とりあえず、目的であった「藤娘」の感想をまず書いておく。
歌舞伎座のホームページによると、この演目は、
「松の古木にからみついた藤の花の間から、黒い塗り笠をかぶり、藤の枝を手にした美しい藤の精(海老蔵)が現れます。可憐な少女と見えた藤の精は、不実な男への想いを胸に、つらい気持ちを踊りに託したり、次第に酔ってゆく様子を艶やかに見せたりした後、再び大津絵から抜け出たような藤の精の姿に戻ってゆきます。立役の海老蔵が、生粋の女方舞踊に挑みます。」
とのこと。
他の人が踊る「藤娘」を観たことはないので、比較はできないが、今回のはものすごく「エンタテイメント」であることだけは間違いない。
第一、舞台に照明が入った瞬間から、もうガツンと来る。これはもう卑怯としか言いようのない、ド派手なオープニング。そして、その瞬間に観客から発せられる「成田屋!」の声。
何というか、ロックバンドのライブを思わせるものがある。
海老蔵が姿を現すことが「コール」であるとすれば、客席からの「成田屋!」の声がレスポンス。そういった、舞台と客席の一体感が、踊りの出来とは別の次元での高揚感を作り出していたことだけは確かである。


踊りとしてどうであったか、というのは、上にも書いたとおり、他の人のものを見たことがないのでなんともいえないが、とりあえず、「一生懸命踊っていたこと」は見て取れた。その姿は健気ですらあった。海老蔵を見てそんな風に思うとは私自身想像もつかなかったことではあるのだが…健気だった。


くどいようだが、「藤娘」としてどうであったかはさておき、見た目の豪華絢爛さといい、観客からの掛け声の数といい、とても「歌舞伎っぽい」空間であったことは確かなので、この舞台を観た海外からのお客さんとしては、想像通りの歌舞伎らしさを堪能できたのではないだろうか。



「傾城反魂香」と「保名」については、書きたいような気持ちもあるのだけど、まだはっきりしたものが見えてこないので、保留としてしておくことにする。
「保名」は昨年の中村勘三郎の襲名公演でも見ているので、どんな踊りかは知っているだけに、何か書いておきたいなあ、という気持ちはあるので。
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by turujun | 2006-05-20 16:30 | 演劇
連休中は、あまり観たいものがないなー、なんてつぶやいていたら、
ダンサーのKさんから「まことクラウ゛があるよー」と教えてもらい、ついでに予約してもらい、観にいってきた。

「シカク」と聞くと、どうしてもNoismの「SHIKAKU」を思い出してしまうのだが。でもこれは「部活動報告会」なわけだから…。


まことクラウ゛はダンサー遠田誠が部長を務めるダンスカンパニー。HPを観る限り、なかなか海外公演を含め多彩な活動をされているよう。
メンバーには先日観た劇団上田の団員にして、先日の公演で印象を残した数少ない役者であった江戸川卍丸もいる。あと森下真樹に大変よく似ているダンサーも。

公式HP→http://my-bb.com/m9v/index.html


さて、今回の公演は、1つの公演であると同時に、ショートピースの集合体のようにも思える内容。
「シカク」とあるので、確かに図形としての四角形を感じさせる振り付けや、劇場の上手部分をリアルタイムで撮影した映像を舞台正面の壁に投影させて「視覚」を意識させたりと、いろいろなことをやっていて、そのときはなるほど、と思うものの、それが全体にいきわたっているかというとそういう感じでもない。
ダンスカンパニーにしては珍しく、女性より男性の比率が高いので、その身体能力を活かしたパワープレイがあるのが新鮮だったが、振り付けそのものは、なんだかうまくまとめてはいるものの、際立った個性を感じられなかった。
メンバーに表現力のある人が多いせいか、キレイにはまとまっていている作品ではある。でも、「まことクラウ゛」らしさってなんだろう?という部分について、明示できるものがあった方が良かったのではないかしら、というのが私の正直な感想。

この作品の中には、ダンサーのキャラクターの面白さ・その人のセンスを利用したものがあった。
それは「面白い」のだけど、その面白さはダンスそのものではなくて、その人が変なタイミングですごく良い笑顔になったりする、いわばお笑い的な要素によって起こされるものだったと私は思う。つまり作品の力というよりは、その人の素によるものなんである。ダンス作品において、この人の生な部分に頼ってしまうのは、安易なのではないだろうか。

まことクラウ゛は、チラシやHPでのイメージの打ち出し方が上手いだけに、作品が小さくまとまっていてはもったいないと思う。
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by turujun | 2006-05-05 19:30 | ダンス
GW中の水曜日だった…ということで、新宿に「ブロークン・フラワーズ」を見に行った。
あわよくば、このあと山下洋輔のライブも見よう、なんて思っていたけど、当日券も出ない、ということで、映画鑑賞後はとぼとぼと帰途についたのだが。

さて、この映画は昨年のカンヌ映画祭でグランプリを獲得しているらしい。相変わらず映画はメジャー主義。
(ここからネタバレ)
物語は、IT関連の事業で成功し、今はセミリタイアなのか、家でのんびりジャージ姿で過ごす中年男・ドンが同居していた愛人に去られ、それと同時に、自分に子供がいること、その子供が自分に会う為に旅に出たことを知らせる手紙が届いたところから始まる。
その手紙をみて、近所の住人ウィンストンは、おせっかいにもドンに過去の女性関係をリストアップさせ、その中の手紙の差出人と思しき4人の住所と、そこまでの旅行の手配をしてしまう。
最初はいやいやながらも、「女性を訪問するときにはピンクの花束を忘れずに渡せ」(というようなこと)というウィンストンの言葉どおり、ピンクの花束を用意し、ローラ、ドーラ、カルメン、ポニーという4人の女性と、事故でなくなったというミッシェル・ぺぺを訪ねていく-というもの。


この映画は、ある意味とても平和な映画だった。
なぜなら、ここのところ見たアメリカ映画が、なんともいえない殺伐とした雰囲気を多少含むものだったから。
この映画には、銃を持った人が出てこない。外出するにも、隣の家に行く程度ならば鍵もかけていなさそうだ。救いがたい憎悪もなければ、絶望もない。出てくる人のだいたいがある形で成功しているし、幸せそうだ。そしてその生活を選んだからといってそれを後悔している様子もない。言ってみれば、「明日がない」と思うほどに思いつめている人は出てこない映画ということ。
そして、何かを声高に、力強く訴えかけてくるという映画でもない。
終盤に、「哲学的になにかアドバイスを(といった内容のこと)を言ってくれ」と若い男性に頼まれて、教訓めいたことをドンが口にすることは、この映画のテーマといえるものだが、それはドンが旅の中で実感したこととはいえ、「哲学的」といわれたからこその言葉でもある。(このあたりが、この映画のニクいところだ)

この映画の印象深いところは、登場人物の一人ひとりをとてもチャーミングに描いていること。主役のドンやウィンストン、4人の女性はもちろんのこと、本当にちょっとした役(たとえばローラの娘や、ミッシェル・ぺぺの墓参りの前に訪れた花屋の定員!)もどこか印象深い部分を作り出している。こうした登場人物をきめ細かに立ち上げているから、一つ一つのシーンが大げさに作られているわけでもないのに、それぞれ印象に残るのかな、と思う。

映画のタイプとしては、「映画館の大スクリーンで!」というものではないので、家のTVで見ても良いと思うけど、どんな形であれ、一度は見ておきたいと思う類の映画だった。
きっともう一度見たら、いろいろなことが見えてきそうな気がする。


ちなみに、この映画では、謎は解けません。「こうなのでは?」と思うばかり。
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by turujun | 2006-05-03 13:30 | 映画
今年のゴールデンウィークは幸か不幸か9連休。何をするか途方にくれたものの、5月1日は映画の日ではないか!ということで、前々から見たかった、この映画を選択。

(以下、ネタバレというか、映画を見てないと分からない記述があります)
今年のアカデミー賞でも話題になったように、この映画はアメリカ南部でのゲイカップルの物語なわけだが、「ゲイの映画」という点でドン引きしてしまうようなことはなかった。むしろ、同性愛かどうかということ以上に、いろいろ考えさせられる映画だった。

公式HP:http://www.wisepolicy.com/brokebackmountain/top.html


この映画は、同性愛者の話なんだが、あえてそれ以外のポイントについての感想を書いておくことにする。なぜなら、それ以外のことも結構考えさせられたから。

私がこの映画を見ていて、興味をもった点は、「何を選ぶか」ということ。
それは、自分の欲望を抑えて異性と結婚するということもそうであれば、自分を変える選択をすること、またあえてしないということ。この映画はその連続なのだ。

その中には、世間を穏便に渡っていくためのそれもあるだろうが、未知のものへの変化を拒む、保守的な姿勢がそうさせる部分もある。
そうしたさまざまな選択の軌跡のように私には思えた。そして時にそれが、そうせざるを得ない状況でのものだからこそ、共感できる部分もあるのだろう。

特にそう思うのは、彼らの職業選択の部分。
イニスは、結局カウボーイとして40歳まで生きているわけだが、その間には、別の仕事に就くチャンスがなかったわけではない(前半、アルマが「電力会社での求人がある」とイニスに伝える場面がある)。だが、イニスはここで、「自分は不器用だから」とか何とか言って、それが稼げる仕事であるにもかかわらず、見向きもしないのである。そして彼は最後には(独り身ということもあるのだろうけど)トレーラーハウス暮らしになる。
でも、そこにあまり暗い影を感じない。それは、この映画のラストシーンということもあるし、トレーラーハウスが出てくるのが、娘が結婚を知らせに来て、結婚式への出席を受ける場面だからかもしれない。

一方、ジャックはというと、職業を選んだというよりも、嫁が実業家の娘で、結婚する=ファミリービジネスに加わらざるを得なくなる。結果としてそれは成功し、彼自身も裕福な生活になり、経済的な勝者の一人となる。この点でいうと、イニスと正反対、といえる。

ちょっと前にはやった「勝ち組・負け組」視点からすると、ジャックは勝ち組・イニスは負け組ということになるのだろうけど、この映画の中では、それが彼らの間にギクシャクした関係をもたらしてはいるものの、精神的な充足や安定をもたらしているとはとても思えない。



あとこの映画について考えたことは、「この映画はアメリカ映画だな」ということ。
アメリカ人がこの映画から捉えられるものと、それ以外の人々が捉えられるものは、ちょっと違うかもしれないなと思うんである。

20世紀後半のアメリカ南部での同性愛者に対する認識や感情はもちろんだけど、それ以外の細かな設定がデフォルトで入っているか入っていないかで、この映画の見方や感じ方ってかなり変わってくるように思う。たとえば、後半でジャックとラリーンがパーティに出席し、同じテーブルに座っている別の夫婦と話をしている場面。
ラリーンともう一方の夫婦は皆大学を卒業しているが、ジャックは(映画を見ている限り)、季節労働者のような生活を送っていたわけで、いわゆる高等教育には縁がない。
この場面で、ラリーンとその妻が所属していたクラブの話が出てくるのだが、これがなんとなく話の流れから、この会話が「見栄の張り合い」であることは見当がつくものの、はっきりとは分からないのである。
たまたまラリーンという裕福な人間と結婚したことで、そういったリッチな階層に属しているものの、もともとはカウボーイだったわけだから、見栄の張り合いが繰り広げられるような場は居場所がないように感じるのは想像に難くない。が、このあたりの知識が、その場面を見て、「こういうのあるある」って思える程度に入っていると、ジャックの立場、彼の辛さも身に染みて分かるのだろうなあ、と思う。

このように、「アメリカ人にとって直感的に理解できるけど、それ以外の人には分からないこと」がこの映画には結構含まれているよのではないだろうか。



【余談】
この映画の主役・イニスを演じたヒース・レジャーの次回作は「カサノバ」。
寡黙なカウボーイとプレイボーイ。めちゃくちゃギャップがあるわな。
【余談2】
ジャック役のジェイク・ギレンホールはキアヌ・リーブスに似ている、様な気がする。
【余談3】
この映画って、何だか「おっぱいぽろり」が多いように思うのは、私だけなんでしょうか??その出し方があまりに不自然なだけに、何かの意図を感じるのですが…。
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by turujun | 2006-05-01 13:30 | 映画