舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2006年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 Kさんに誘われ、「かもめ食堂」を観てきた。上映館はシネスイッチ銀座。

 19:30が最終回、というので、ちょっとだけ残業をし、19:00ごろ映画館
に到着。すると、目の前には女・女・女!想像を超えた女性9.5割の行列が出来ていた
のである。

 なぜだ!と思ったら、、毎週金曜日はシネスイッチ銀座のレディースデー。900円で
映画が見れる日だった。行列するわけだ。

 ありがたいことにKさんが席を取ってくれていたので、私は座ってみることが出来たが、
通路にまで人があふれかえるほど、立ち見の人で場内は超満員だった。彼らはそこまで
してなぜ今日見るのかは分からないけど、駆り立てられる何かがあったのだろう。
Kさんはダンサーであるが、ダンス公演の制作をやってもいるので、この状況を見て、
消防法的にはアウトなのでは、と心配していた。

 さて、映画の舞台はフィンランド。たぶんオールフィンランドロケなのではないだろうか。
でも位置づけとしては日本映画。原作は群ようこだそうな。
 

ここからはネタバレあり。ご注意ください。
 

 


 フィンランドはヘルシンキにある食堂「かもめ食堂」。オープンして1ヶ月、まだ客は誰
もいない。そこへ日本人女性・現地の個性的な人々が現れて、ほのぼのとした物語が展開さ
れていく、というのがこの映画だ。
 
 でてくる人たちはみなものすごく打ちひしがれているというわけではないけど、それぞれ
に過去があり、いろいろな思いを抱いてこの場所に集まる。そうだからこそ、という感じで
互いを受け入れ、思いやり、温かな関係を築いていく。
 それは、日本人3人の間だけではない。
 この映画には、旦那が家を出て行ってしまい、その直後に飼い犬に死なれてしまった女性
が出てくる。年齢は日本人女性3人と同じくらいである。はじめは、店の中をいつもにらみつ
けて通り過ぎてしまっていたのだが、あるとき、店に入ってきて、お酒を頼み、それを一気
飲みして倒れてしまう。その彼女を介抱したことで、友情が生まれていく。そういう現地の
人との関係が深まるのに平行して、店も徐々に繁盛していく。

 こう書いていると、この映画は海外に移住した日本人女性が現地のコミュニティに受け入れ
られるまでを描いたもの、みたいな要素もありそうだが、それはない。そんな社会派な映画で
はない。
 むしろちょっと不思議な感じがする映画だ。

 なかでも一番不思議なのが、もたいまさこの演じる「まさこさん」。彼女は空港で荷物がな
くなってしまうのだが、その問い合わせの電話がいつも日本語。そして上記の夫に逃げられた女性が倒れたときに彼女の話を聞いてやるのだが、フィンランド語が分からないにもかかわらず、なぜかコミュニケーションが出来ている。そしてなくした荷物が出てきて、引き取ってみたら
、トランクの中には黄色のきのこがぎっしり入っていることに対しても、やたら落ち着いている
のだ。起こっていることがどんなにシュールでも、動じないし、それゆえにこちらも「映画の
中だし、そういうこともあるよね」という思いになってしまう。そういう妙な説得力のある
キャラクターだった。
 

 日本で撮影していないと、こんなにも映像の色味が違うのか、というくらい、映像の印象
が違う。日本の映画って(これは個人的な見解なのだが)画面の雰囲気が重く、いつもそれ
があまり好きではなかったのだが、色の出方がすっきりとしていて、明るく、軽さがあり、
洗練までいかないけど、ちょっと垢抜けた感じの映像になっていた。

 
 ここまでいろいろ書きつつも、実際のところこの映画に対してすごく思い入れができたかというと、そんなことはない。信じたことを信じたようにやっていれば、それが報われる日がくる。そう信じられるようになるほどには、説得力はない。そんな映画だった。 
  
 


 
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by turujun | 2006-03-17 19:00 | 映画
 「激情」でかなりへこみ、ニセS高原で苦手であることを確信してしまったポツドール。今回は訳あって観なければならぬ、ということで行ってきた「夢の城」。場所はTheater TOPS。

 2005年度の岸田國士戯曲賞受賞者というだけに留まらず、何かと話題のこの劇団。そして私が観にいったのは千秋楽だったが、何とか当日券で入ることができた。舞台を観るまで、いろいろなところからの評判を聞いていたがそれが賛否両論真っ二つだったので、表示機かなり心配だった。


だが、 実際観てみたら、その心配は杞憂に終わった。面白かった。

 これは起承転結、というような明快な物語がある作品ではない。食う寝るところに住むところ、そしていつでも性欲を満たすことができるところにいると人はどうなるか、という実験の観察である。
 
 客入れの音楽が途切れ、目の前に現れたのは、窓ガラスに隔てられた雑多で統一感のない、若い人が住んでいそうなワンルームマンションの一室。その中にはガラの悪そうな男女複数名が入っていて、しばらくすると、暗転し、タイトルが映像と次の場面の時間帯が示される。そして舞台が明るくなると、その窓ガラスはなくなる。
 そこにいる人たちがしていることといえば、食べるか寝るかセックスするか遊ぶかのどれかである。それは窓ガラスのあるときもないときもずっと同じである。見方によっては酒池肉林とも桃源郷とも呼べそうな、でも全くうらやましいと思えない世界がただ連綿と続いていく。
 何回か暗転し、そのたびに次の場面の時間帯が映像で示され、それにあわせて窓の外の光の色や、TV番組の内容が変わるのだが、部屋の中にいる人間がしていることに大差はない。 
 どんなときでも、ゲームしたければゲームするし、お腹がすけばご飯を食べ、そこにいる一人ひとりがきままに行動し、キーボードを弾きたければ弾く。そして、ある人のやることに対して他の人が全くといっていいほど、干渉せず、会話が全くない。聞こえてくる声はTVの音声の他は、女のあえぎ声と泣き声くらいだ。
 何で彼らがこんな共同生活をしているのか、どうやって生きているのかといった情報はどこからももたらされない。それは、この作品では、出てくる人間がどういう人間であるとか、関係がどうであるとかは、乱暴な言い方をすれば「どうでもいい」ことだからなのだろう。舞台上にあるものが全てである、そのことがこの作品にとって一番重要だったのではないか。
 
 そこに「行為」があるだけで、それ以外のものがない、ということは、私にこの前観た「ある天才少女スミレ」の中での黒沢美香を思い出させた。
 このブログにも中途半端に感想を書いたが、この作品の中での黒沢美香は、こういっては何だが、ぱっと見疲れたおばさんみたいだった。そのおばさんがあるときおもむろに豆電球(?)がついたヘアクリップを取り出し、それを頭に二つ、パンツの左右のポケットに一つづつ着けだす。すると、普通のおばさんは、ただごとではないばかばかしさと哀愁を併せ持った姿が現れる。その淡々とした変化は、シュールかつ衝撃的だった。これを可能にしたのは、黒沢美香の舞台上の自分を見つめる客観的な視線だろう。
 「ただいる」ことの徹底的な追求と、という点で、黒沢美香と今回のポツドールは似ている。私はそんな風に思う。
 
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by turujun | 2006-03-12 14:00 | 演劇
〔注意〕この文章は、ネタバレを含む恐れがあるので、今後この作品を観にいく
予定のある方はご注意ください。あと、かなりとりとめなく書いているので、
分かりづらい点あるかと思います。



 チェルフィッチュ「三月の5日間」を観てきた。

 場所は六本木Super Deluxe。この作品は、ここで行われたマイナーなバンド
のライブでのエピソードから始まる。つまり、作品の舞台(の一つ)でその作
品を上演している、という何とも贅沢な話なんである。

 私はチェルフィッチュをこの作品の前からだいたい、いやほとんど観ていて

、もちろんこの作品の初演も観ている。でも、ストーリーや展開は知っている

にも関わらず、やはり面白かった。


 初演と再演とで、創り手側にも変わった点があると思うが、見る側にも当然
ある。

 それは、イラク戦争が「終わった」とされてから時が過ぎているということ。
 反戦デモも過去のことになりつつある今、エピソードのいくつかは記憶を今
一度呼び起こさないと、それに対してピンと来なくなっている。今、リアルに
この物語に反応するには劇世界と現実世界との間に微妙な差が生まれているの
だ(あくまで私個人の話ですが)。
 (だからといって、この戯曲に意味がない、というとそんなことはない。
 あのときと今で世界の状況が改善した、ということはなく、あの戦争は終結し
たことになっているが、そのことによって新たな混乱がもたらされている。そ
して、同じような理屈で、「あの戦争」に似たようなことが起こりうるのが今だ。
 そんな「あの戦争」と同じ、いや戦争ではないけれど「悲惨な生活」というものは世
界のどこかに存在していて、その一方で、精神的にはどうであるかはさておき
、とりあえず生きていくことに物質的な苦労はないという生活が存在している
以上、この戯曲の本質的な部分は生きていけるのではないかと思う。)

 また、この作品、そしてチェルフィッチュを取り巻く周りの目にも変化が
あった。この作品がはじめて上演されたのはガーディアン・ガーデン演劇フェ
スティバルであったのだが、あのときの観客の観る姿勢と、今回のそれは明ら
かに違いがある。初演時は、客席の人々はまだ未知との遭遇といった感が強く、
この作品にどう反応したらよいのか分かりかねているようにみえたが、今回の
客席の人々は、「熱気」に満ち、積極的に舞台を楽しみに来ているようだ。観
客は作品に対して構えずに観るようになったということである。
 それに大きく寄与しているのは、いうまでもなく、この作品の岸田國士戯曲賞
の受賞だ。この賞の受賞によって、ある種のお墨付きをもらったようなもので、
観客は「これは良い作品である」と認識した上で来ている部分が大きいのでは
ないかと。これってある文学賞を取ると、その本が売れる、という現象に似て
いる。
 主宰の岡田氏は自身のブログでForced Entertainmentに触れて、「日本でも
こういう演劇が増えれば、チェルフィッチュがフリークス扱いされずに済むの
に」というような(うろ覚えです。そのうち確認します)ことを書いていた。
でも、主流派とかといえばそうではないものの、私の感覚からすれば、初演時に
比べればずいぶんとチェルフィッチュの演劇は演劇を観る人たちの間に定着して
きたように思うのだが。
 

ことによるとこのテキストはまだ続くかもしれない。 

  
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by turujun | 2006-03-11 20:00 | 演劇
代官山UNITにて。なぜかこれは19:30スタートだったので、全部は観ていないのでは。
出演者は以下のとおり。
sim
山川冬樹
恩田晃
OPTRUM
ドラびでお
真鍋大度(DJ)

私は山川冬樹のパフォーマンスの途中から観た。
ダンサーのKさんから山川さんが面白いと聞いていたので、行ったようなものだが(他にも理由はあるっちゃあるが)、行って良かった。

直感的に面白いものもあるし、「こういうものを作る人はどういう発想でここに至ったのか」という点に興味が沸くものもあった。

世の中のどこかで、私の知らない何かをしている人たちがまだまだたくさんいるのだ、ということを思い知った日だった。



個人的にはOPTRUMがベスト。私はノイズ系の音楽は苦手なのだが、ライブである限りは、彼らはOK。
彼らのCDが近日中に発売(いや、もう出ているかもしれないが)になるそうなのだが、彼らの良さの一つには、オプトロンの、シンクロする音と光と、ドラムをたたく姿があると思うので、CD音源だけだと、片手落ちになるのではないだろうか。この人たちはライブで見た方が絶対に良いと思う。
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by turujun | 2006-03-08 19:30 | アート
 この作品は、私の知る限り、五反田団初の、「チラシと実際の内容が違う」作品であった。その理由は、当日パンフレットに書いてある作・演出の前田司郎の言葉からうかがい知ることができる。長い劇作生活、そんなこともあるのだろう。
 
 今回、MONOの金替康博が客演している。彼はMONOでも外部作品への出演でも、彼の飄々とした持ち味を活かしつつ、その役にはまり込める人だ。
 私が昨年のクリスマスに見た風琴工房「サイケデリック・フルーツパフェ・ミニ」での阿部薫では、鋭さと繊細さのある演技を見せていたが、今回の役では、五反田団おなじみの情けない男を、五反田団史上最も情けなく演じてみせた。
 見た目の雰囲気が前田司郎と金替康博は似ているなあ、と思っていたが、役者の力量なんですかね、そのはまり具合は想像以上だった。しかも、それが前田司郎や黒田大輔が演じると「まだ若いから」と許せそうなやんちゃさが垣間見られるのに対し、金替の演じる「男」は、ニートと呼ぶにも救いのなさそうな前田や黒田の演じるところのダメと、いわゆる「ダメな大人」の間の微妙な位置に立つ、純粋なんだけど、パワーのない「だめさ」を持つ人物になっていた。

 それに対し、私としては残念だったのは、女性陣。台詞の言い方が全員まだ固く、またそれぞれの役を自分のものにしているようには思えなかった。五反田団の作品の特徴である微妙な間合いも表現できていなかった。金替がうまいだけに、ちょっと惜しい。このあたりは回を重ねるごとにこなれてくる部分かと思う。
 
 戯曲でも、ちょっと惜しいなあ、と思った点がある。それは、今回の作品では、台詞で話を動かそうとしている部分が多いことだ。
 これまでの五反田団の戯曲は、テーマを台詞で説明するのではなく、それぞれに特徴がある登場人物が、そのキャラクターを発揮しながら動いていくことで物語を展開していたのだが、今回の作品が愛についてのものであったせいか、言葉に頼る部分が多くなってしまっていたように思う。
 それでも、正月の工場見学会のときに上演した「逃げるメン」にあったような観客のイマジネーションを刺激する突拍子もない展開が観られたのは良かった。(これは観てのお楽しみということで)

 全体として、どこかぎこちない部分を残したままで公演期間に突入してしまったように思えるのはちょっと残念だが、これからまだ公演は続くことだし、その中で変わっていくところもあるだろう。

  前田司郎は、前回の「キャベツの類」のあたりから五反田団的な「大人」の作品を模索している最中なのではないか。その行方をしっかり見届けていきたいと思うのであった。


以下、あらすじ。ネタバレ部分もあるので、ご注意ください。


〔あらすじ〕
 男は、即身仏になりたいと願って、ゴマしか食べず、外出も一切しない。部屋には大量の撮影済みフィルムが転がっているが、
彼は現像に出しに行こうとしない。
 この男は、瞳という恋人と同棲しているが、稼ぎがあるわけではないので、家賃も食費もすべて彼女もちである。
 あるとき、彼の目の前にゴマの精が現れる。ゴマの精は、彼が世界で7番目にゴマを食べている人間であることを告げ、このままいけばゴマになれる、と語りかける。
 その後も即身仏になるために精進し、ついには自分の尿以外何も口にしない生活を始める男。そんな彼に瞳は愛想をつかして出て行ってしまう。それでも彼は即身仏になるためのオリジナルの修行をやめようとしない。
 「ゴマを食べ続ければゴマになれる」といったゴマの精に対し、「ゴマではなく即身仏になりたい」と打ち明ける男。彼に対しゴマの精は「ゴマも即身仏も同じだ」と答える。そしていつの間にか港らしきところに男は立っていることに気づく。傍らには出て行った筈の瞳がいる。二人は傘を使って空を飛び、シュールかつ楽しいひとときを過ごしたあと、二人は温泉宿に到着し、なぜ別れようとしたのかしばし語り合い、やがて眠りにつく。
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by turujun | 2006-03-05 20:34 | 演劇
 とうとうしてしまった、三谷幸喜デビュー。しかもなぜか歌舞伎で。

 今回のチケットは12000円。高!でもその高さの理由は劇場に入ってすぐ分かる。
舞台上には回り舞台があるだけで、書割もセットもなにもない。そしてその後ろに
は居並ぶ下楽の皆様。まあ、理屈はミュージカルと同じということ(なのかな?)。
 舞台が始まると、彼らが奏でるのは、リズミカルかつ威勢の良い「決闘!高田馬
場のテーマ」と思しき曲。通常の歌舞伎での浄瑠璃と、テンポも言葉も違うので、
謡の方々も謡い辛そうである。何てったって「パ・パ・パ・パルコ歌舞伎!」だから。
 
 その曲が終わると、一転、回り舞台が動き出し、舞台の上に現れるのは江戸の下町。
 歌舞伎座で観られる歌舞伎と、今回の歌舞伎の大きな違いは、回り舞台を使った舞台セットの転換だ。
  歌舞伎座の舞台と比べ、パルコ劇場の舞台は小さい。その小ささを回り舞台を駆使してセットをコンパクトかつ立体的に動かすことで、展開をスピーディにし、また見せ方に多彩なバリエーションを生み出していた。言ってみれば歌舞伎座での古典的な舞台の見せ方が2Dならば、今回の「決闘!高田馬場」は3Dだ。

 物語は忠臣蔵の登場人物の一人、堀部安兵衛の若き日の武勇伝だそう。安兵衛の父親
がお家騒動に巻き込まれ、家が取り潰しにあい、浪人生活を強いられて、「喧嘩安兵衛
」と名乗って喧嘩の仲裁で日銭を稼ぎ、飲んだくれていたが、自分の叔父が明らかに罠
がしかけてあるだろう決闘に向かうということで、助太刀に走る、というもの。
 

 基本的にいわゆる普通の歌舞伎では睡魔に襲われる私。何といっても初歌舞伎体験は
「野田版研辰の討たれ」なわけで、伝統芸能としての歌舞伎に対しては、こころから「すば
らしい!」と言う人間ではない。だから今回の作品に関しても、歌舞伎という視点から見てどうか、ということについてはよく分からないが、見せ場も多く、そして自分の作品のパクリもさりげなくいれつつ、三谷幸喜的サービス精神満点な舞台であったと思う。

 ただ、惜しむらくは、チケット代の高さゆえか、大向こうの掛け声がなかったこと。
観客としても、どこか物足りなかったし、演じている方も見得をきった瞬間に客席が静
かだとやりづらいのではないかあと思った。
今後はコクーン歌舞伎みたいに「舞台半分しか見えないけどその分うんと安い立見席」
みたいのを用意すると良いのではないかと思う。(パルコ劇場にはそんなスペースはな
さそうだが)こんなことを思うあたり、歌舞伎って参加型演劇なんですね、なんて。

あと、普通の歌舞伎ってはじめに一本劇があって、その後舞があって、また長い劇が一本
、みたいに何本か出し物がセットになっているのに、パルコ歌舞伎はこれ1つだけ、とぃうの
もちょっと寂しい気がする。そう思うと歌舞伎って本当にサービス精神が旺盛というか、娯楽
なんですね。
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by turujun | 2006-03-05 15:00 | 演劇
 これまでの水と油の公演では、「…惜しいなあ」と思わされることが常であった。
 それは、彼らは自らの作品の中で、いつも新しい表現を模索しているわけだが、
その試みは作品の中での試みは成功することもあれば、伸びしろのようなものを感
じさせたまま終わってしまうこともある。それゆえ、「次はなにかあるのではないか
」と期待して見続けてしまったのだが。
 でも、今回の「均衡」では、そう思うことはなかった。観終わって感じたのは、
「満足」だった。

 今回で一つの区切りをつけることになる水と油。彼らはこの作品を一つの時代の集
大成としようとしたのではないかと思う。そのせいか、これまでの彼らの作品にあっ
た、マイムを使った表現への冒険心はなりを潜め、過去の冒険の収穫をすべて投入し、
手堅くまとめた作品になっていた。
 
 これまで、ダンスパートと演劇的パートは別物のように見えることが多かったが、
この「均衡」では、これまでにないほどそれらが緊密にリンクし、緊張感にあふれ、
かつ身体表現としての魅力をあますことなく表現できていたように思う。

 身体の動きという点では、これまでの作品にあるようなキレはないように思ったが
(じゅんじゅんの身体をかばってのことだろうか??分からないけど)、その代わり
、モノ(ホテルの受付カウンターや机、椅子)などを使った場面の展開の速さはいつ
も以上にスピーディかつ複雑で、ダイナミックだった。
 また、演劇的パートでは、いつものメンバーの役割を押えつつ、全員が笑い担当か
?という場面もあり、ユーモアたっぷり。彼らのサービス精神の賜物だろうか。

 今回、こうした一つの時代の終わりとも取れる作品を観たことで、良いものを観ら
れた、という思いがある一方で、やはり一抹の寂しさを感じないわけにはいかない。
今後、それぞれが充実したソロ活動を繰り広げて、いつかパワーアップした4人の
「水と油」の世界をみせてほしいと切に望む次第。


〔余談1〕
 今回で水と油は活動休止期間に突入するためだろうか、メンバーの衣装がこれまでの
衣装だけではなく、ホテルマンの水色の詰襟ジャケットのようなものも用意されていた。
(ももこんはおなじく水色のホテルウーマン仕様のワンピースである)。

〔余談2〕
 今後の活動はぼちぼち出てきているみたいだが、個人的に気になるのは、青年団の兵
頭久美とももこんが共演するというもの。主催は駒場アゴラ劇場。場所はアトリエヘリ
コプター。
 いったいどうした縁でこの二人が共演することになったのか、そしていったい何をする
のか、興味は尽きない。

〔余談3〕
 ダンスカンパニーとして認識されている水と油なのだが、今回の作品を観ていて、個人的
には、彼らのダンスの動き自体はそんなに個性的でも魅力的でもない、と思った。彼らのダ
ンスがその力を発揮するのは、やはり演劇的なパートで提示されるエピソードやシーンが頭
の中にあって初めて観る者の感受性を刺激するのではないだろうか。
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by turujun | 2006-03-04 15:00 | アート
…と言えるほど、映画を見ているわけでもなし、好きかといわれるとそうでもないのだが。

 でも、今日は映画の日ということで、今日から無職であるにもかかわらず、映画を見に行った。まあ、1000円だから、懐に気をつかったといえば使っているのだが。
 
 今日見たのは「クラッシュ」。アカデミー賞にもいくつかの部門でノミネートされているらしい。(このあたりよく知らない)。 とあるブログでこれが面白い、と書かれていたのを見て、見に行ってみた。


 
 この映画は、検事と妻、黒人の刑事、ペルシャ人の店主(雑貨店か何か?)、鍵屋の技術者、強盗、TVドラマの演出家とその妻、要介護の父を持つ警官が主な登場人物とする群像劇。ある事件でいったんかかわった者同士が別の事件で再会し、互いの別の面に遭遇していく、といったつくりになっている。
 この作品には、上に書いた以外のたくさんの人物が登場する。彼らの人種は白人、黒人のほかに、アジア系やヒスパニック系、アラブ系とこれまたいろいろである。そして白人でも富裕層と貧困層がいたりと、一言では言えない多様性を持っている。そのことが、いろいろな複雑な摩擦を生んでいる、ということも描かれていた。

 そこで提示されるのは、アメリカに存在する人種差別の問題、ということもあると思うのだが、もっと深いところもあって、それはアメリカのみにとどまらない普遍的なことなんではないかとおもう。それは、高級車に乗ってドレスアップしているような人にも言葉に出来ない不安がある一方で、生活の中の苦労を負っていたり、そんなに豊かでないながらも、もささやかな幸せを感じている人もいる、ということ。一言でいうと、人には陰陽両方がある、ということ。人間としてもそうだし、人生の中で起こる事件もそうだ。


 
 
 

 この映画がアカデミー賞をとるかどうかは不明だが、取れるタイプの映画ではないように思う。なんとなく、ハリウッド映画っぽくない。でも賞をとるとらないにかかわらず、この映画は面白いし、人に自信をもって薦められる映画だ。
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by turujun | 2006-03-01 18:06 | 映画