舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2005年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

  「劇団鹿殺し」の「百千万」を王子小劇場で観た。これを観ようと思ったきっかけは、彼らの路上パフォーマンス。「アングラかよ!?」な幟を掲げて、かなりくたびれた衣装を身にまといパフォーマンスの準備に四苦八苦しつつも、「もうすぐ始まります!」と客を呼び寄せる姿に、東京の演劇では久しくみない「貧乏」さを隠さない潔さとたくましさを感じ、ついつい最後まで見入ってしまった。そのパフォーマンス自体は一世風靡(実物は見たことないけど)チックかつ劇団新感線チックで、とりたてて新鮮味はないけど、劇団員のキャラのたち具合がなかなかだったので、チケットも購入してしまったというわけ。

 で、本公演であるこの「百千万」だが、ストーリーやテーマには全くといってよいほど魅力を感じなかったけど、やっぱりやっている人たちの過剰なまでの表現への熱さがそれを補って余りあるほどだった。こういうのどっかで観たなー、と考えて「毛皮族」を思い出した。もちろん、作風は全く違う。でも、客へのサービス精神と体を張った表現に共通するものを感じる。でも、毛皮族(って一度しか観たことないけど)は一番目立つのは江本純子だけど、鹿殺しの方は、なんだかんだいって男性陣それぞれの見せ場がきっちりと用意されていて、その点、劇団員に対する演出の思いやりというか愛を感じる。そのせいか髭の子チョビン(演出かつ唯一の女性)は今ひとつなのだけど。←だが、アンコール(といっても、舞台袖からアンコールを求められたのは私の観劇歴中初!!)でこの劇団のテーマ曲らしきものを歌っていた彼女は素敵。

 彼らのやっていることというのは、自分たちが演劇をやりたい!というのと、舞台はエンタテインメント!観客を楽しませたい!というのが強烈。だから観客とのスキンシップあり、観客参加コーナーありでかなり盛りだくさん。彼らは演劇として新しい表現を模索するとか小難しいことは考えてなさそう。そこが良い、と私は思う。今の勢いを大切に東京の演劇シーンを走ってもらいたいな。


※後日談:昨日、メールを見たら、鹿殺しからアンケート回答に対するお礼メールが来ていてさらに驚き。ここまでやる劇団は私は初めて。全てにおいて全力投球なのだなあ…と感動すらするね。ここまでやると。
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by turujun | 2005-06-26 14:00 | 演劇

あたまとからだ

昨日、「ミリオンダラーベイビー」を見てきた。
この映画の評判としては「泣ける」というのがあるようだけど私は結局泣かずじまい。むしろ、見ている最中からいろいろ考えてしまった。考えたこととは映画の出来ではない、念のため。
 この映画は女性プロボクサーの出てくる映画だが、ボクシングそのものを描いた作品ではないし、ボクシングを通じて何かを描いているわけでもなかった。むしろ後半との対比のために前半にボクサーとして上り詰める過程があるように思えた。そしてその対比とは動けるからだと動けないからだ。前半でのマギー(ヒロインですね)は、ほぼボクシングの素人という状態から、フランキーにトレーナーとしてついてもらうことで、頭角をあらわし、タイトルマッチにまで上り詰める。言ってみれば、自分の意思以上に自由にからだを動かせる状態。ところが後半では、ずっとベッドの上で動けない状態だが、意識だけははっきりしている、前半が動なら後半は静ではなく不動。しかもその状態は自分の意志によるものではないわけで。そしてからだを動かし、より良い人生を獲得してきた人がそのからだを奪われてしまうということは、人間として生きてはいても、その人生を生きているとはもはや言えない。で、この映画の結末に向かっていくわけだ。
 一方、トレーナーであるフランキーというのは、ずっとボクシングに関わってきた人ではあるけど、ギリシャ語の本が読めたりするようなある意味、知性のある人のよう。しかも、相当敬虔なクリスチャンでもあるようだ。(23年間ほぼ毎日ミサに通っている、みたいなエピソードもあるので)つまり、フランキーは、「からだ」の人であるマギーに対し、「あたま」の人といえると思う。そういう人が、からだで何かを成し遂げていく人を導き、支えていく。そして最後のマギーの望みを理性や信仰に反してまでかなえてしまうというあたりに、私は、この映画は「からだとあたま」の映画であり、「あたまの敗北」なのではないか、ということを考えてしまったのだった。


(まだとりとめもなく書いているので、まとまりがありません。訳がわからないかとは思いますが、おいおいまとめていきます)
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by turujun | 2005-06-22 20:55 | 映画

思い出す

今、「橋本治が大辞林を読む」を読んでいる。といっても、まだ読めているのはさわりの部分だけで、本題には入っていないのだが。そのさわりの部分というのは、要約すると、「橋本治が自らの言葉を確立しようと思った理由と、それにいたるまでの経緯」である。そこに書かれていることが、非常に共感できる。といっても橋本治の方がもっと全体的なのだが。
 そもそも私が舞台について何かを書こうと思ったのは、舞台について書かれている文章に対して「これってどうなんだろう」と感じていたからだ。そしてそう思う自分にとっての「舞台」とは何か、どうだったかを形にしたくて、書き始めたはずなのだが、最近は、何となく忙しいことを理由に、すっかりそんなことも忘れて何となく備忘録的に書いてしまっていた。反省。

 ちなみに、私がこれまでに読んだ演劇批評で一番共感したのは、内野儀氏が図書新聞に書いていたチェルフィッチュ「三月の5日間」についての文章。あれはすごかった。私がぼんやり思っていたことをズバリ文章にしていた。だから、共感というよりもむしろ「参った!」ですな。
 
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by turujun | 2005-06-22 12:53 | その他

ナインとコンドルズ

昨日の話になるが、私は「ナイン・ザ・ミュージカル」を観た。昨年の初演も観たが、女性陣に関しては、一人喉のつらそう(風邪?)な人がいたが、それ以外はソロもアンサンブルも度々鳥肌がたちそうなほど(冷房の効きすぎではない)良かった。ほぼ黒一点の別所哲也も意外なくらいに唄がうまいので、それだけで安心して観られた。私的にストーリーにいまひとつ引き込まれるところがないので、超感動とはいかないまでも、観る価値のある作品だった、といえる。
その後、夜は教育「芸術劇場」でコンドルズ「JUPITER」@渋公を見る。リアル版を見ているわたしにとっては、これでコンドルズの面白さが伝わるのだろうか?と思うような内容。特に気になったのが、舞台の暗さ。コンドルズの照明は派手、という意識があったから、映像になったときに思いの外暗いことに驚いた。アップになれば問題ないが、ちょっとカメラがひくと、衣裳が学ランなのもあり、暗くてダンサーがまるで見えない。コントのときも、ちょっとアンニュイな感じがしないでもない薄暗さ。舞台を見ている分には感じたこともなかったので、意外。そして暗いがゆえに際立つチープさ。生で観ていればその場の雰囲気で文化祭を思い出すね、ぐらいのポジティブさでとらえられるが、映像だと妙に客観的になってしまうので、しょぼくない?と思われても仕方ない状態になってしまう。創る側にはそれをカバーするくらいの撮影と編集の工夫が必要なのではないかと思う。それこそ劇×シネぐらいお金をかけてクォリティのものを創れば、生をみた人にも、みてない人
にも満足してもらえるかな、ト思う一方、そこまでやらなければだめなのかと思い、舞台の映像化の難しさを痛感(創り手ではないが)してしまった。そんなわけで、映像化された「JUPITER」に興醒めしてしまった私はそのままビールを飲んで寝てしまったのだった…。
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by turujun | 2005-06-12 14:00 | 演劇

銀河鉄道の夜

今日、縁あって(といってもチケットを購入してだが)山の手事情社の「銀河鉄道の夜」を観にいき、舞台のはじめから終わりまでずっと泣きっぱなしという前代未聞の事態になってしまった。
私は宮沢賢治を読む度一人涙しているような人間なので、話を知っているから泣けるのかなぁなどと思ったりもしたが、どうもそうではないような気がする。そこのところを書こうかなとも思うが、今日のところは余韻に浸っていたい気分なのだ。
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by turujun | 2005-06-04 23:08 | 演劇