舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2004年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

7月24日は吾妻橋ダンスクロッシングの日だった。ぎりぎりまで観にいくのどうしようか悩んだが、未見のダンサーやカンパニーを一挙に観られたのでいってよかった。「観た」という事実ができただけの人もいたけど、観ないよりましだ。
 イベントだからなのか、出演者のもともとの持ち味なのか(両方かもしれないが)それぞれの作品も全体的にお笑いの要素が強いなか、ニブロールだけはシリアスだった。ゆえに良かった。
 いつもの暴力性は影を潜めていたものの(彼ら流お祭りモードだろうか)、壁を指先でつつくような動きとか、外に突き抜けていかない体の動きから、二人の人間の間にある軋轢や違和感や苛立ちなどが、率直に感じられた。何となくだがニブロールはお姉さんになったように感じられた。
 後から身体表現サークルに飛び入り参加した黒田育世と対照的だ。黒田が出てきたとたん、もともと濃いイベントのりがさらに濃くなった。今が旬のアイドルみたい。
 そんな周りが浮き足立った感じになっている中で、あくまで自分流を貫いたパフォーマンスをするニブロールはかっこいいと初めて実感したのだった。
そんなわけで、「ノーツ」、観にいきますよ。
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by turujun | 2004-07-26 16:29 | ダンス

先週の金曜日のこと

宮沢章夫他による映像作品を見てきた。上映中ずっと眠かったがひとつだけ印象に残ったところがあった。最後の作品は前半がモノクロで、あるシーンを境にカラーになるのだがそのカラーになってからの映像の色合いが言葉にはしずらいがきれいだった。
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by turujun | 2004-07-26 08:51
 今年最後のダンスシードのプログラムだったせいか、7月18日の夜の回は大入り満員。私は、普段は物置として使われているスペースでの鑑賞となった。そこは背の低い私でも立っていることはできないぐらい高さもなく、また大人が椅子に座って4人がやっとという小さな場所。窮屈なうえにやたら暑いので、上演中はかなりしんどかった。だが、せまくてやたら暑いのを除けば、いつもより高い位置から空間を見渡せるこの場所からの眺めは、ちょっとしたVIP気分。
 一番手は国枝昌人「bystand」。辞書で調べてみたら、「bystander」はあるけど、「bystand」はない。だから造語みたい。「bystander」は傍観者。冒頭、ほの明るい照明の下であお向けに浮いて見えるような状態で始まるのだけど、初めて見たときは、まるで手術台の上にいるように見えた。でも、その後、台を片付ける間もなかったので、そういう風に見える体勢だったのだろう。具体的にどうであるかは分からないが、キープするのはかなりしんどそうであることは分かる。そこから起き上がって、ゆっくりとした、緊張感ただよう動きがしばし続いて、5月、6月にも多く見られたような(国枝はダンスシード3ヶ月間毎月出演していた)、早く、キレのある動きが展開される。時折、身体を床に落とす動きがあるのだが、そのたびに「ゴトッ」という骨と床がぶつかっていそうな音がして、痛くないのだろうかと思う。5月6月の作品でも見られた早い動きは、基本的な動きのバリエーションは基本的に同じなのだけど、今回は観ている私の感じるところが違った。これまでの彼の動きは、「動ける」ことが確認できるものの、何のために動いているのかさっぱりわからなかったのだが、今回に関しては、私は、彼の動きを観られることを前提としているような動き、もしくは自ら観察対象となるような動きであるように感じた。いってみれば、籠の中の虫を外から見ているような感じだ。それは高いところから見下ろしているからなのか、とも思ったが、タイトルからすると、それは視点の位置などではなく、表現の意図するところであるようだ。この人の作品を観て、初めて作者の意図に触れられたような気がする。観続けることで見えてくることもある、ということだろうか。
 2番手は神村恵「もう無理、もう無理?」。これってどうよ?と思うような自暴自棄気味なタイトル。ダンス自体もヤケなのかふざけているのか、ぱっと見分からないようだが、実際のところ、この人の5月の作品も持っているフレーバーが脱力系。いっぱいいっぱいな状況下での、やる気が失われつつあるような、半ばやけっぱち、でも焦ってたりするようなところがこの人のダンスの5月の作品と今回の作品に共通する方向性なのだろう。しかも、それをそのままやるのではなく、いったん自分の感覚から切り離して客観視したうえで、ダンスのムーブメントとして再構成しようとしている。そんなものをダンスにしようと考える発想がまず面白い。だが、それが、実際に作品として成立しているかというと、そうであるときもあればそうでないときもあるようだ。作品のはじめの方で、舞台中央奥に観客に背を向けてかがみこんでいる姿や、上手の方で走っているポーズがピタリと止まらず、ぐらぐらしているところのように、すきだらけの体を見せているところや、壁をけって床の上を滑っていくところは、良い意味で「よくこんな動きを思いつくよな」と思えるが、最後の頭をかきむしるところは、ダイレクトすぎてちょっとつまらない。
新井英夫と早川るみ子の作品は、基本的に二人の間には何ら関係が見られない。特に新井は、本当に自由に動いているように見える。対して、早川は新井より少し遅れて舞台に現れた後、新聞紙を破ってその後舞台後方のカーテンの後ろに隠れてしまう。その後しばし音沙汰ないようでいて、カーテンから少し顔をのぞかせて新井を見つめてみたり、腕を出したりと、ちょっとアクションを起こす。それが妙に気になり、じゃんじゃん動く新井よりずっと目に付く。特にじっとカーテン越しに新井を見つめるていたときには、二人の関わりがさほど問題とされていないこの作品の中で、何らかの関係を感じさせるいい場面だった。早川は今回が初舞台だという。背の高さとたっぷりとした長い髪といった身体的な特徴を活かして舞台上でぐらっと動くと、それだけで目を奪われる。いってみればビギナーズラックなのかもしれないけど、いいじゃん、ビギナーズラックで。
新井と早川がびりびりに破いた新聞紙を片すことなく、善財の作品へ。しわっぽい白いシャツをはおって、ベージュのガードルを身につけた善財は、さながら家の中でだらしなくしている感じ。下に散らばる新聞紙の紙片は、実際の彼の部屋も散らかっているかも?とか思ったりして。そんななかで、鼻をほじってほじってほじって…訳のわからないスペクタクルを展開する。「作品」と称して鼻をほじりまくり、客にお尻を見せつづけ、最後には舞台に観客をあげて作品に参加させるんだから、かなり大胆。この人にとってのダンスって、…本当に何でもあり。だから面白い。ダンスで表現できるものへの許容範囲を意図的に無視したかのような馬鹿馬鹿しいモチーフからのある意味壮大な展開は、爽快ですらある。最後がこの人で本当に良かった。
 そして暗転後、新井の掛け声ではじけた音楽と照明にかわり、ダンスタイムに突入し、そのままカーテンコールへ。3ヶ月続いたダンスシードというダンスのお祭りにふさわしい幕切れとなった。
 それにしても、こんな終わり方と知っていたならば、高いところになんて登らなかった。舞台に上がっても上がってなくても、その選択の自由のある位置にいた観客全員が羨ましかった。沸き立つ観客席の熱気をともに感じることの出来ないロイヤルボックスの人々の気持ちも、こんなものなのかもしれない。

 この文章は、今年の5月から7月にかけて千駄木にあるBrick-oneというスペースで行われていた「ダンスシード」というイベントの今年の最終回7月18日(日)(先週のことですね…)についてのものです。来年もある予定なので、気になった方はチェックしてみてください。
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by turujun | 2004-07-25 21:57 | ダンス
 THE SHAMPOO HATは、いわゆる「静かな演劇」をつくる劇団の一つなのだが、その特徴として、静かな上にこのうえなく小さな社会=家族と、普通の生活の中にある狂気をテーマにしている。(と、私は思っている)今回の戯曲は、「痴呆老人の介護」そして家族間のディスコミュニケーションという、決して無関係とは言いがたかった(でも直接的に関わったとも言いがたい)ことをモチーフとしていることもあり、考えさせられることが多かった。
 今回の作品は、タイトルの通り、物語の舞台はおそらく、再開発の進む、片田舎の肉屋。といっても店の方ではなく、肉屋を営んでいる一家の居住空間の方。そこに十年ぐらい?離れて暮らしていたその家の息子が帰ってくるところから始まる。スーツを着て現れるので、セールスマンか何かか?と思っていたが、実際には、喪服であることが、肉屋を継いだ弟の「葬式なんてしないよ…」という台詞から分かる。二人の母親が死んだことを知り、兄である人物は長らく近寄ることをしなかった実家に帰ってきたのだ。ダイニングテーブルにすわり、ぎこちなく語り合うなかで、弟が結婚していること、母親が痴呆になったことなど、だんだんと分かってくる。そして弟が痴呆の母親を窒息死させたこと、それを家中の人間が外部に対して隠していることなどが分かってくる。また、彼らの父親の亡霊(ラップ現象らしきものと一緒にでてきたのでそうだと思う)が現れて、自分たちの両親と、20年間アルバイトで肉屋ではたらく池田との秘密なども明らかになる中、弟は自首することを決意する。
 と、いうのが、この作品のあらすじ。この作品においては、さまざまなエピソードが直接的に示されるわけではなく、あくまで出演者の会話やちょっとした反応の変化によってほのめかされ、あぶりだされていく。しかも、「親殺し」の事実が判明したにもかかわらず、そこから劇的な展開が待っているわけでもなく、登場人物の間に流れる熱が高まることのないまま、物語りは兄・弟とその場にいる人と父の亡霊(?)を中心に、あくまで家族の物語として淡々と進んでいく。
 私は「家族の絆の回復」だと思った。どうして父親は失踪し、兄が家を出たのか。この作品中では明らかにはされない。だが、兄は母の死を契機に家に戻り、自分の不在の間に弟に降りかかったであろう様々な問題とその結果として訪れた悲惨な結末、そしてその弟の罪をも受け止めようとするになるし、父も(実際には幽霊なのだろうけど)家に戻り、そして隠されていた秘密を打ち明ける。
 今回テーマとして扱っているのは、始めに書いたように、家族と、「介護」、その中で起こる殺人(親殺し)で、こう書くと、陰惨な物語にもなりかねないのだが、そんなでもない。それは陰惨な部分を掘り起こして深めようとしているわけではなく、むしろ、作者が問題にしているのは、そういった事件を起こしている中で、離散した兄弟が、母の死(=母殺し)を契機にし、その絆を取り戻していく、その始まりの部分なのではないかと思う。だからこそ、劇中で、母親の死体を前に号泣する弟に対して「自首しなよ」と声をかけられたのではないか、と思うのだ。
 
 また、この劇団での美術の良さも今回改めて実感した。ここの美術は実はこの劇団のメンバーにして、役者としても参加している(今回は出演していない)、福田暢秀の手によるものなのだけど、日本的な生活感のにじみ出るセットを作らせたらこの人の右に出る人はいない、と私は断言したくなるぐらい、リアルな生活空間を作り出す。「雨が降る」の公営住宅の一室、「青空」の安アパートの一室。実際の誰かの家をそのまま再現してもここまでリアルには感じられないだろう、というぐらいの、「所帯じみる」を見せるツボを知り尽くした者だけが創ることの出来る(というといささかおおげさだけど)リアルな生活感あふれる美術は今回もばりばり健在なのである。
 ただ、戯曲はこう考えていくと、いろいろなことが頭の中に浮かんでくる、興味深いものであるにもかかわらず、その演出と演技がリアリティ重視なせいか、ともすると、めりはりのない、のっぺりとした舞台になってしまうきらいがある。リアリティ重視の静かな演劇というものに、私は共感できるところ多々あるものの、作品の中にある人と人との間の違和感や摩擦による感情の高まりが激情となって現れてこないで、皮膚の下でその不快感が蠢いているように描くのは、この劇団のいつものことであるのだが、今回はその蠢きがあまり感じられなかった、という点で不満が残った。例えば、アルバイトの池田が終盤で「人生は素晴らしい」と口にし、「お前にだけは言われたくない」と弟が返す場面。もちろん、それまでのやりとりで、雇い主である肉屋での扱いの悪さからして(長年勤めているのにアルバイト、というところからして)、池田の人生があまり素晴らしいものではないことは明白なのだけど、池田がこの言葉をいうことで、弟が感じる違和感というか嫌悪感がその場に立ち上がってきているように思えなかった。また、近所の幼馴染みの五十嵐の「「こういう人いるよね」と感じる類の狂気も、もう少し「狂気」として見せてもらえると、もっと締まってくるのかな、と思う。
 あと、これは静かな演劇とかリアリズム演劇とかいう話とは別の観点での不満なのだが、滝沢恵の演じる女性がいつも同じような印象である。どういう印象かというと、「愚鈍なのだけど、ちょっとエキセントリックなおばちゃん」。これは本人の演技力に問題があるのか、それとも作者の女性の描き方によるのか、それとも作者の中にある滝沢恵に対する印象によるものなのか、全くもって不明なのだが、もっと違う女性を演じて欲しいor違う女性を演じさせて欲しい。
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by turujun | 2004-07-02 16:54 | 演劇