舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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<   2004年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

…のはずだったのだが、先日の六本木ヒルズでの回転扉の事故ゆえ、中止とあいなりました。事故、というより人災ですが。
 さまざまな年齢層が集まる六本木ヒルズだからこそ、今後、回転扉はもちろんのこと、各所の安全対策を確実なものにして、訪れる人皆が安心して楽しい時間を過ごせるようにしてもらいたいなと思います。
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by turujun | 2004-03-29 09:57

対ダン?初体験

今日は、神楽坂セッションハウスにて、「"Dance Dance Dance Session"vol1 ―静かな狂気たち― 」を観てきた。これは、とある出演者からDMをいただいていたので、たまには出演者からチケットを購入しよう、と思って観にいったものだ。出演者は、女性陣は2人とも知っていたが、男性はどちらも未見。いろいろ観てはいるものの、私的に「メジャー」でないと観にいかない方なので、今日のはかなり冒険の部類。
 今回のは、4人のダンサーのいわば対バン形式のダンスなのかと思いきや、そうではなかった。正確に言うと、そのあたりからして不明瞭だった、ということだ。そのためか、観ていて、「何がしたいのか」ということが最後まで見えてこず、また直感的に「面白い」というところまで到達せずに終わったため、かなり歯がゆく感じられた。正直なところ、「狂気」には至らず、当り障りのないダンスだった。
 複数で踊るパートについては、振付にそれなりの工夫をこらそうと感じられる部分もあるのだが、それが、部分的なものに終始してしまっていた。良い部分がないわけではないので、そういった部分を有機的につながった姿が見られたら良かったなのにな。また、振付が「この4人ならでは」というものではなく、他の人が踊ってもそんなに違わないな、というものだったものも残念なところ。複数のパートがどのように創られたのかは不明なのだが、それぞれのダンサーの特徴や個性をもっと前面に押し出しながらものにできたのではないかな、と思う。
  ソロの部分に関して言うと、自分の個性というものがどう観客に受け取られているもので、そのなかでどう動くかという、自分の内的な意識と観客の視点に対しての認識があるひととそうでない人がはっきりと分かれていたと思う。こうしたことが出来ていたと思えるのは、上村なおかさんただ一人だった。セッションハウスの狭い空間では、かなりゆっくりとした、指の先まで神経の行き届いた繊細な動きは、かなり観る人の目を引きつける。色気がありつつ、どこかさわやかな、それでいてそこはかとなくユーモアを感じさせる彼女のダンスは今回一番の見ものだったといえるだろう。
 今回のディレクターだった、笠井瑞丈は、はじめ出てきたとき、「この人はヒップホップの人なんだろうか」と思った。それは衣裳もそうなのだが、オープニング部分の動きがブレイクダンスもしくはヒップホップのダンスのそれだったからである。でも、もろにそうなのかというと、さすがにそうではなく、言うなれば、壊れたヒップホップ。そういえば、コンテンポラリーダンスの世界は同じ時代にありながら、ヒッップホップに対しては一線引いているというか、全く要素がないよね。彼はもともとはどんなジャンルのダンス出身なのだろうか? 
 かなり荒削りな感じがあったけど、とにかく迫力と勢いがあって面白い彼。ちょっと気になる存在として私の中にインプットされたのであった。
 たかぎまゆは、…ソロの部分に関しては、正直、スゴイ動いてるんだけど、つまらない。というのも、その動きによって、何をしたいのか、その部分が見えてこないのだ。「ただ踊りたい」という思いさえも。衣裳や小道具の凝り方に対して、ダンスがどうしてもおざなりに見えてしまうクオリティのダンス。「自分の個性」と「何をやりたい」か、そしてそれを「どう見せるか」に対してもう少し意識を高める必要があったのではないだろうか。複数で踊るところに関しても、自分の個性を活かしきれていなかったように思う。ニブロールの「ドライフラワー」では、ところどころで、場を支配してしまうような、コミカルなキャラクターがでていて、今回もそれを期待していただけに、ちょっと残念。
 斉藤栄治は、ずるいな、という感じ。暗い中でマグライトを口にくわえて動き回っていたので、踊りがよく分からない。でも、それが観る者にとって面白いものかどうかは、不明。私はちょっとダンサーの独り善がりに思えた。闇と光と影をもっと効果的に使えたのではないかな。ちなみにルックスは街中で見かけたらかなりかっこよい感じ。個性が弱いのはそれゆえ?
 この企画は今回がはじめて、ということで、やる方も手探りの部分が多いと思うし、それゆえの方向性の見えなさだったと思う。おそらく、この企画は、単なるショーケースのつもりはないと思うので、集めるダンサーの個性が拮抗する、その時しか遭遇できないものが見られたら良いな、と思う。次回以降に期待。

  
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by turujun | 2004-03-22 11:08 | ダンス
3月12日(金)と13日(土)と2日連続で世田谷のシアタートラムでのリーディングを観た。リーディングという形式が初めてだったのだが、12日に観た「家」(ニコラ・マッカートニー作 三浦 基演出)は、集中して聞いてもどうにも理解できないという代物だった。アフタートークで演出家も役者も大方「良く分からない…」みたいな発言をしていたので、久々に本気で理解できないと思ったのもまあ、仕方がなかったよな、とちょっと安心。
 「家」は、大雑把に言うと、姉妹の物語であり、母娘の物語である、というところだが、起承転結で説明できる構造にはなっていないので、説明しずらいところではある。私が理解し、共感したのは、姉妹も母娘も決して分かりあえない部分があるし、信じあえない部分がある、ということと、過去の記憶と今の疑念が複雑に絡み合い、素直に相手を受け入れられない、ということ。難解ながらも、これだけは何とか分かった。というより、これぐらいしか分からなかった。
 アフタートークで、演出の三浦さんは「ほんとに理解できない」みたいなことを言いながらも、それでも、戯曲を舞台として形にしているのは驚いた。凛とした美しさのある照明と映像の使い方や、人の動かし方、言葉が心地よく飛び交う(そう、とても音楽的)言い方による、緊張感と硬質な美しさが漲る演出は、戯曲のわからなさを完全に補ったとはいえないけど、すごい魅力的だった。モノクロームサーカスの飯田茂実さんが、三浦さん演出の「三人姉妹」を「本当にスゴイ」と力強く評しただけのことはあるな。戯曲があまりに分からなかったので、「堪能した」まではいかないけど。
 特に自閉症のジョーを演じた青年団の安部聡子さんは、そのセリフのリズム感とか、舞台上でのたたずまいが、すごく良い。見た目地味な深窓のお嬢さん風なのに、こういう前衛的なことも難なくこなせるのはスゴイ。ジョーが自閉症という特殊さを抜きにしても、彼女の動きや語りが今回の作品の方向性を示していたと思う。
 一方、13日(土)に上演された「雌鳥の中のナイフ」(ディビッド・ハロワー作 宮沢章夫 演出)は、「家」に比べれば、ずっと話が分かりやすく、また、面白いとも思えた。これは純粋に戯曲そのものの「形」によるものであって、それ以外の要素がどうこう、という話ではないのだが。逆に、戯曲がきちんとした筋を持っていると、演出面で思い切ったこともやりづらいのかな、とも思った。どちらがいいのかは分からないが。
 この作品の演出の面白かったところは、なんと言っても「ト書き」も読む、というところにあった。「間」とだけあるところを読んでいるのをはじめて聞いた時には、その「ま」がト書きの「間」であることを理解するのに十秒くらいかかった。本来読まれることのないト書きを声に出して読むということは、単にそのト書きとしての本来の役割としてではなく、、きっちりした筋のある戯曲を、そのことで引っ掻き回すような力があるように思った。
 あと、これは両方に言えることだが、リーディングという形式においては、基本的に台本を持って読むので、いつもの劇のように表現する時に体を使うことができないから、いきおい読み方がちょっと大袈裟になる傾向があるように思われた。その中で上にも書いた安部さん(ちょっと読み方が特殊だというのもあるけど)と、下総さんは、そのことがさほど気にならなかった。アフタートークでも2日目の宮本さんが言っていたが、リーディングという形式は役者さんにとって表現の方法が制限されてしまうので、やりづらいらしい。


 (おまけ:2日目のリーディングの後のシンポジウムの感想)
 スコットランドのトラヴァースシアターのスタッフとそこからサポートを受けている劇作家二人(今回リーディングで上演した作品を書いた人たち)そして宮沢章夫氏と世田谷パブリックシアターのスタッフという顔ぶれだったのだが、シンポジウムの内容以上に宮沢さんのコメントがいちいち面白い。そのせいで、他の人が話しているのを聞いているときでも、「次はどんなことを言おうか考えているのかしら」とか邪推してしまった。
 シンポジウム自体はトラヴァースシアターの劇作家支援プロジェクトと日本の状況の違いと、劇場運営方式の違い、劇場の体制の違いなど、なかなか興味深い内容。「イングランドでは劇作家支援している劇場はいくつかあるがスコットランドではうちだけ」「うちはスコットランドの新作を上演する劇場です」と、あくまで「うちはスコットランドの劇場」という誇りを感じさせるコメントもあり、本筋以外のところでも、そうなんだぁ、と思うところが多かった。それと同時に、イギリス(あえてイギリスとここではいう)の劇場というのが、どういうシステムで運営されているのか正直なところ良く知らないので、そういったところについてももうちょっと突っ込んだ説明があったらありがたかったな、と思った。
 もっと堅苦しいかと思っていたけど、意外に面白い内容だった(宮沢さんの愉快コメントだけではなく)。
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by turujun | 2004-03-17 09:12 | 演劇
タイトルと違う話なのだが、このブログは、休日より平日の方が断然アクセスが多い。皆仕事の合間に読んでいるのだろうか。私は結構仕事の合間に書いてますが。タバコ吸う人の「一服」みたいなものだ。
ところで、キノコだけど、「とってもかわいい公演でした」…これじゃあんまりなので、もう少し書きます。
今回のCLASKAだが、ちょっと洗練されつつも、敷居の高さを感じさせない、かなりいい感じのスペースとしてちょと知られているところらしい。実際、私が到着した時点でかなりのキノコ公演待ちのお客さんがいたことを割り引いても、ここはお洒落だけど気取ってなくてなかなか素敵だ、と思った。
 公演のはじまりは、観客はその1階のロビーから。キノコの面々が1階ラウンジにわらわらと現れ、キノコご一行予約のテーブルにてお茶を楽しみつつ、次第にテーブルに乗ったり、下をくぐったり、テーブルを交えてじゃれるようなダンスを披露。小さな子供が見ていたら(カフェにいたような気が…)真似しそう、そして親が怒りそう、などと邪推。
 その後、キノコのダンサー達はエレベーターに乗り込み、2階へ。続いて観客も階段で、ぞろぞろと次の会場である2階のギャラリーへ。
 会場に入ると、正面にファンシーなインテリアの女の子の部屋のような箱、下手の方にはドレッサー。上手には私の座っているところからは隠れているけど、ダイニングテーブルと椅子がある。そうそう、このギャラリーは横長で、かつ柱が2本(だったかな?)あるので、全ての動きが見渡せるわけではなかった。でも、それでなくとも今回の作品では、全てのダンスを観られる観客はいなかった(はず)。それがたとえ楠田枝里子であっても。なぜなら、影だけが見えるような位置でダンスしたり、柱の影で踊ったりと、わざと見えない場所ができるように創られているとしか思えない構成だったからだ。
 だからといって、そのことが、フラストレーションになったり、ましてやこの作品がぶち壊しになるようなことは無く、むしろ、おちゃめな悪戯ぐらいの楽しい印象になったのは、「見えないこと」を逆手に取ったような振り付け・演出とキノコのキャラクターによるものだろう。
 その後、観客を入り口側から舞台セットのある方へ移動。前半とはちょっと趣のちがう、観客から参加者を募ったダンス教室や、別のスペースで踊るダンサーの生中継(なのかしら?)など、盛りだくさん。特に映像は映像の中にダンサーがちゃんと映っているときあり、影だけが映像に映りこんでいるときありで、なかなか面白かった。終演後に、映像に映っていたソファの実物を見て、「これかぁ」とか思ったりして、終演後にも楽しめるポイントがあるのも個人的にツボ。
 今回の作品を通じての一番印象に残ったのは、観客とダンサーの距離がすごく近かったこと。これにより、今回の公演の観客にとって、ダンスがただ「観る」だけではなく、自ら「体験するもの」「作品の一部になる」ものとなった。こうした「ダンス公演におけるダンサーと観客との関係」について「フリル(ミニ)ワイルド」以上に踏み込んだ今回のさまざまな試みは、おおむね成功したといって良いと思う。そうなってくると、今後気になるのがキノコの作品の方向性だ。再び「NEW ALBUMS」のような、観客が「観るダンス」のような作品を創るのか、それとも、今回のような、ダンスとアートワークのコラボレーションによって立ち上がるキノコワールドを観客と共有する作品を更に深めていくのか。個人的には後者のほうが好きだが、今回の経験が反映された舞台作品にも興味がある。今後の活動に引き続き注目したい。
 このような、観客と近い空間でさまざまな表現の冒険をしたキノコについて、もう一つ。「珍しいキノコ舞踊団」=「カワイイ」なのだが、今回の作品を見ていて、「カワイイ」以外には何も無いものか、と思ってしまった。繰り広げられるキノコワールドが、あまりに「カワイイ」ばかりなので、ちょっと食傷気味になったんである。上に書いたような「表現方法」の冒険だけではなく、「カワイイ」をベースに何かもっと観る者の核にぐっとくるものを表現するといったテーマ面での冒険を観てみたいのだ。
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by turujun | 2004-03-16 16:25 | ダンス
 先週の日曜日、「ドライブインカリフォルニア」のチケットを取り損ねた後行ったパルコブックセンターでこの催しのポスターを見かけて、「入場無料」ということと、確定申告がまだだったことを言い訳に、有休をとってまで観にいってしまった「松尾スズキ物語」。
このイベントはNHKの「今裸にしたい男達」のための企画らしい。番組の企画として、クエストホールを借りて無料公演をやるとは、さすが天下のNHKだ。しかも、脚本は松尾スズキ書き下ろし(らしい)し、セットもちゃんと組んであって、ちょっとした小劇団の公演より、ずっと立派だったりして。
 なお、この公演は昨日と今日だけだが、この他に松尾スズキの幼少から現在までの歴史を紹介する展示もぱらりとあった。展示類は、時系列ながら無造作な置きっぷりで、やろうと思えば展示品持って出られそうな感じ。おそらく見に来る人はともかく、松尾氏にとっては、さほど大切ではないのかもしれない。この展示の中に、発泡スチロールで出来た赤ちゃんの模型が大量に積んである一角があるのだが、この中に「業音(だと思う)」のカンペが貼ってある一体がある。他にも隠しアイテム的にいろいろありそうなので、暇な方は観にいってみるのもまた一興。
 さて、「松尾スズキ物語」なのだけど、出演者は「少女歌劇団」なだけあり、皆少女かどうか不明な人も混じっていたが、女性ばかり。新体操の心得があったり、楽器ができたり、歌が上手かったりと、いろいろ芸があって、しかも結構かわいい感じの人が多かった。キャラ先行の人もいたけど。で、松尾スズキ役は…ソニン。上演途中でマイクが壊れるトラブルに見舞われていたが、慌てず騒がず堂々と歌続行。
 
 それにしても、これに関する目下の興味は「一体これをどう番組に使うのか」。今のところ、わざわざ場所借りてまでこんなことやる意義が全く見えないので。BSだけと言わずに地上波でも流してほしいものだわ。
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by turujun | 2004-03-12 16:55
海外カンパニーの招聘公演というのは、「レペゼン○○(国や地域の名前を入れて読んでください)!」みたいな、実際良く出来ているけど、よく出来すぎているゆえか、心に引っかかるようなものがない、みたいなところが多い、と私は思っている。(なので、「アル・ハムレット・サミット」も観ているが、レビューを書けなかった)しかも、そういったものに限って、所謂批評家の評価は高いので、そういうものについて語れない私って見る目がないのかしらん、などと不安にかられてしまいがちなので、この作品もそうなのかしらん、などと思っていた。
 でも、実際観てみると、そんな不安はどこへやら。かなり面白く、また、イギリスのある意味リアルライフに触れられると言う点でも、興味深かった。でも、ここでいう「面白い」というのは、エンタテインメントとして面白い、というのとは違い、どちらかというと「五反田団」とか「チェルフィッチュ」とか、日本の「静かな演劇」の流れに連なりつつも新たな表現を展開しつつある人たちの作品に近いところがあり、どこか抽象的でありながら、描かれているのは、普通の人々の姿だったりする。もちろん、主人公がシングルマザーだったり、恋の相手がドラッグディーラーだったりという、イギリス社会の暗部を含むイギリスにおける「普通の人々」なので、日本のそれとはちょっと違う部分はあるのだが、基本的な流れは同じだと感じた。死人がでるような、劇的さはないものの、気休めのような救いもない普通の人々の生活を同じ高さの目線から見つめて創りあげられた物語。それがテーブルと椅子があるだけのシンプルな空間で、テレビやコメディの影響を受けた、時に自分に語りかけるように、時に観客に心情を説明するようなユニークなモノローグとかみ合ったりかみ合わなくなったりするダイアローグによってクールに、軽快に展開されていた。
 この戯曲を書いたジョージア・フィッチは、ブッシュ・シアターの新人劇作家養成プログラムのもと、この作品を18か月かけて書いたそうで、いわばイギリス演劇界の若手中の若手なのだそう。モノローグを随所に盛り込んだダイアローグといった実験的な手法が取り入れられているのも、なるほど、という感じ。一方、この作品の演出を担当したのは、ブッシュ・シアター芸術監督のマイク・ブラッドウェル。すでに舞台のみならず映像分野での経験も豊富なベテランの演出家なのだが、若い作家のチャレンジ精神溢れる作品の新しい試みに応えるスピーディで観る者の想像力を刺激する演出をしていた。驚きだったのは、劇場のプログラムとして新しい劇作家を育成する過程で、新進の劇作家とベテランの演出家が手を組むということ。日本では世代ごとで分断されていて、世代を超えた取り組みってあまり聞かない。プロデュース公演といっても、単なるいいとこどりを狙っているに過ぎないし。(しかもいいとこだけ取ろうとするので、どうしても中身が薄くなりがち)イギリスにおける演劇の人材育成の違いをまざまざと感じた次第。
 この作品が見せてくれたことは、イギリス社会の問題や、新しいイギリス演劇の流れだけではない。日本の新しい演劇とイギリスのそれは流れとしてそんなに違いはないかもしれないが、その基盤となっている部分は、かなり違う。日本はもっと異なる世代の人が若い世代の才能を尊重して、一緒に仕事をしていくべきだ、ということだと思う。
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by turujun | 2004-03-10 16:02 | 演劇
 今回の作品で、とりわけ私が良い!と思ったのは、「4×4」。これは昨年新国立劇場で初演されたが、私はこれを見逃していたので、かなり楽しみにしていたのだけど、これが想像以上に素敵だった。
 蛍光色に光る箱の中にいるところから始まるオープニングといい、ももこんとすがぽん枠と連動したり離れたりといった無重力ぽい動きなど、非日常を感じさせる今までの水と油の持ち味を存分に生かしつつも、そこにサイバーテイスト(?)が新しく加わり、そう来るか!と思わされた。思いもよらないマイムの新機軸。そんな引出しがあったとは。
 その一方で、今までの水の油の動きのパターンが展開されるところももちろんあるのだが、そういうところも、(小品ということもあるのだろうけど)展開が早く、動きはさらにスムーズさとキレが増して、とても洗練されている作品。観ていてとても心地よかった。
 彼らは、この作品を創ったことで、自分達の表現のベースを確かなものにするとともに、その可能性を発見し、実現化することに成功したと思う。いうなれば、これまでの水と油は、現実の世界をゆがめていく感覚であったのに対し、この「4×4」では私たちの生活空間から切り離された抽象的な世界をも表現し得ることを見せてくれたのだと思った。
後半2つの作品は、「甘い罠」がおのでらんの、「トリミング」がじゅんじゅんによって創られたものだそうで、それぞれの興味のあること、やりたいことがはっきり出ていた。「甘い罠」には、通常の彼らの作品に比べてはっきりとしたストーリーがあり、それをアコーディオンの生演奏のなか、せりふなしでやるという、演劇的要素の濃い作品。「トリミング」はそれに対し、「トリミング」は、ストーリーというよりも、より動きと笑いを重視した作品であったと思う。
 どちらも、「4×4」に比べると、小手先で作ったような印象がある。というのは、それぞれの動きが、これまでに創られた作品で使われたものだったり、モチーフだったりというのが多いように思われたからだ。とくに「トリミング」は、これまでの水と油の作品のパーツを繋ぎ合わせたように思われる場面が結構あって、コアとなるイメージやストーリーがない分、散漫な印象を受けた。それなりに、面白く観れたのは、水と油としての基盤が確立されていてその上で作られている作品であるということと、かなり「笑える」要素を盛り込んであったということがある。幕が上がると同時に爆笑が起きてたからね。
 ちょっと辛口なことも書いた気がするけれど、今回の作品では、過去現在未来の、いろいろな「水と油」を堪能でき、とても充実した幸せなひと時を過ごしたのだった。新作が楽しみだ。
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by turujun | 2004-03-09 17:22
ニブロールのときにも入場待ちの人の数に驚いたが、今日も平日夜にも関わらず、すでに行列が出来ていた。しかも、年齢層がこれまでの2組に比べ高く、また見た感じリッチな人が多いように感じた。谷桃子バレエ団つながりか、はたまた出演者の親戚の皆様か…。
 直接は見ていないが、開演直前まで当日券待ちの人が結構並んでいたらしい。意外に人気あるんだな、パークタワーダンスフェスティバル。今回でパークタワー主催は終了らしいが、ここまで育てたのに、勿体無い話だ。
 客席の顔ぶれもなかなか豪華で、ニブロールの矢内原さんも来ていたし、石井達朗とかダンス関連の人はかなり観に来ていたようだ。マイナーメジャーな人たちとはいえ、ちょっとミーハー気分で客席を見回してしまった。
 私の前に座っていたサラリーマンの皆さんも、別の意味で気になった。コンテンポラリーダンス公演の会場でスーツにネクタイという普通の勤め人スタイルは珍しい。会場整理をしていた男の人の服装はジャケットに花柄シャツだから、対照的。助成している財団の人か何かだろうか。
 さて、NEXTNEXTのときには、暗幕はったシンプルな空間の中で踊っていたが、今回は単独公演なのもあり、白を基調として、舞台前方には水の張られた溝、舞台後方には、3階建ての屋台(って言うんですかね?)といった、かなりしっかりしたセットが組まれていた。2階から3階の梯子がいつでるか、どう使われるのかというのが、私の一番の興味であった。
 で、肝心のダンスはどうだったかというと、結論から言うと、今回のネクストダンスフェスティバルで一番面白かったと思えた。特に終盤のセミヌードの女性が鈴のついた縄?をもって現れるあたりからが、圧倒的な迫力で、それまでの印象が吹き飛ぶほどのインパクトがあった。それまでは、取っ組み合ったりするシーンもあったものの、女のかわいらしい部分や繊細な部分がまだ感じられたのだが、セミヌードのダンサーが、パチパチパンチ(吉本新喜劇でやっている、あれです)をしたり、口に鈴のついた紐を加えて頭をぶんぶん振り回したりしだしたところで、それまで水面下で抑えられていた荒々しさというか、野生のたくましさ、激しさが噴出して、そこから一気に女性の持つありとあらゆる部分が渾然一体となって舞台に渦巻いていて、怖いと感じつつも、強くひきつけられた。とんでもなくインパクトのあるシーンが存在する一方で、全体的なダンスとしては、その存在を拒んでいるような振りもありつつ、やはりバレエが根底にあり、そのおかげで無骨な部分をもたせつつもダイナミックな中に華が感じられた。
  ただ、残念だったのが、前述のとおり、終盤のインパクトがとてつもなく強かったせいで、前半から2/3ぐらいのところの印象があまり残っていないということ。前半部分と後半部分がまるきり断絶されているわけではないとはいえ、もったいないなと思った。また、これは、ダンスそのものではないのだが、美術との連携という面で、せっかくの3階建て屋台が最後の方でしか生かされていないのは、いかにも残念だった。 このように、今回のBATIKの公演は、とても面白かったのだけど、面白いと感じたのは、、黒田さんの結構大きな作品を観るのが初めてだったので、何をみても新鮮だった、ということがあるのは否めない。今回が、かなりアイディア勝負というところがあったので、今後アイディア以外の面でいかに自分の色を出し、かつ新しい表現を開拓していくか、これからはそれが勝負だと思うし、そうすることで、消費されることに対抗できると思う。…ほんと、面白いと飛びつくけど、見切るのも早い、という残酷な風潮、どうにかならないものかと思ってる。それへの抵抗として、できるだけ一つ一つの作品を評価しつつ、定点観測もしていこうと思っているのだけど。
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by turujun | 2004-03-06 23:34
19時開場だったので、ぎりぎりに行ったら、既にホールの前に入場を待つ人の列が2列×2もあった。いつの間にそんな人気者になったんだ、ニブロール。開演時刻の19:30になっても、受付の前に長蛇の列。ゆえに開演は遅れた。
 さて、作品であるが、いつものニブロールといってしまえばそうなのだが、観る側の視点がニブロールの作品を良しと受け入れない状態のため、ちょっと辛口な感想を持ってしまった。刺激的な言葉と暴力的な振り付けで、退屈ではないのだが、新たな方向を模索している待っただ中で、まだその先を提示できていないように思った。
また、ダンス・音楽・衣装・映像・照明等様々な要素が拮抗して一つの作品として成立させる、みたいなことを「プチクリ」のインタビューで言っていたような気がするのだが、それも今ひとつ上手くいっていない。それぞれの要素を見ると、やはり圧倒的にダンスの存在感が強い。映像はパフォーマンスを通してずっと流れていたと思うのだが、やや上品すぎるのだろうか、展開されるダンスにも絡みきれておらず、かといって存在を主張も出来ていなかった。ダンスに気を取られがちななか、映像に目をやると、「おしゃれ」な映像が流れているのである。あの本心をあますことなく露にしたような暴力的なダンスに拮抗するにはもっとアグレッシブな映像にしても良いのではないだろうか。
 ここで思い出すのが、2月20日に観たNESTである。NESTもまた、音楽、映像、ダンス、建築といった様々な分野のアーティスト達のコラボレーションを行っているのだが、彼らはどちらかというと芸術方面からのアプローチなので、映像と音楽に関しては、圧倒的な高揚感を呼んだのだが、ダンスはとりあえず動いているような印象だったが、ダンスからやってきたニブロールはダンスの強さたるや相当なものだが、それ以外の部分が弱い。そこへくると、フィリップ ドゥクフレの「IRIS」はダンス・映像・音楽のそれぞれが力を発揮しつつも一つの作品としても完成していたから(←2003年の私のベストといってもいい作品。)やはり世界で認められている人の力というのはスゴイし、凡人には計り知れないパワーを持っているのだと思わざるを得ない。
 最後に、いろいろ書いてはいるが、今回の作品は、決して「まるでだめ」なわけではなく、今までのニブロールのラインは保っていると思う。だが、観る側は、すでに「新しい今」を無意識で感知している。ニブロールは、アーティストの視点からその無意識な「今」を意識化し、自分達の作品としてそれを提示しなければならない時がきているのではないだろうか。
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by turujun | 2004-03-02 15:36
これについては、はじめのうち、全くノーマークだった。野田秀樹がアフタートークにでると知り、それならば、と前売りチケットを購入してしまったに過ぎなかったのだが、知らないということはやはりさまざまな意味で怖いということが良く分かった。
 今回3つの作品を上演したのだが、その全てがとてもシンプルな舞台装置で、照明もさほど凝っておらず、音楽もいたって静かなものばかり(2番目の「N.N.N.N」に至っては無音!)と舞台上はストイックであるにもかかわらず、というより、だからこそ、これらの作品の豊かさとダンスの可能性に衝撃を受けたのだ。以下、個別の作品に対する感想。
 安藤洋子ソロの予定だった作品は、「情熱大陸」でもやっていたとおり、他に2人のダンサーの登場する「WEAR」という作品になっていた。野田秀樹のアフタートーク目当てで来た人も少なくないだろうから、「WEAR」=「キル」?と思ったのは、私だけではあるまい。私はこの作品を観ている間、安藤洋子が外部からきた者で、男性2人が現地の人で…という「赤鬼」のようなストーリーを持った作品なのだろうか、と思って観ていたが、いくらなんでも、野田秀樹につなげようとするのはいかがなものか、私。実際にはロバート スコット南極探検隊の南極点到達と、アムンゼンに先を越されていたという悲劇的エピソードをモチーフにしているということだった。言われてみれば、モスグリーンの防寒着といい、ロシア人の帽子のようなかぶり物も納得がいくような気もする。足の動きが面白い振り付けだったことが印象に残っているものの、ちょっと後の2つに比べて直感的に分かる部分の無い作品であった。
 2番手の「N.N.N.N」は、シンプルきわまりない、ダンサーの動きだけで構成された作品。オープニングで、ダンサーが自分の片方の手首をもう片方の手で打ち上げ続け、その後4人のダンサーが出たり入ったりしながら、さながら知恵の輪のようなダンス。それはマクロ的・ミクロ的にからだを観察し、分析しぬいて、考え抜いた末生まれたかのようだが、だからといって、マニアックな方向に行かず、むしろ洗練された動きで笑えるダンスとなっているのが驚き。
 最後の「quintett」。大砲のような形をした物体(実際はプロジェクターかなにかのようだ)が上手側に、下手奥の床に長方形の穴があり、そこに人がいる。舞台の上にもちらほらと人がいる状態から始まった。この作品にも安藤さんは出演していたのだが、舞台上で、他のダンサーと一緒に踊る場面が最初の作品より多いので、安藤さんの体とその身体によるちょっと泥臭い感じのする踊りの違いが際立つ。それでいて、バレエを基礎としている他のダンサーの持つ洗練された美しさとの違和感が不快なものにならず、むしろその違和感がアクセントとなって、作品をただキレイなだけに留まらないものにしていたと思う。その異質なものを足し合わせて何倍もの「美しさ」にできるのは、やはりフォーサイスならでは、なのだろう。

 今回の3作品ともに共通しているのが、舞台上の色彩がブルーを基調としたシンプルな空間であることと、それゆえに「からだ」によって創られるものが何より重要であるということ。3作品とも、ダンサーとその踊りがなければ、何一つ成立しないし、極端な話、音楽や映像は無くても十分成立し得る。たとえば「quintett」の終盤で唐突に背面の壁に映像が投影されたが、それがあるからといって格別な効果があったわけではなかった。それぐらいダンスで十分すぎるぐらい舞台空間が埋め尽くされていたのである。
 美しいとされているものを創るではなく、創りあげたものが「美しい」と認められる説得力を持つ作品を創るのが創り手の役割なのだな、と思い、また、フォーサイスはそれが出来る振付家であり、フランクフルトバレエ団はそれを現実化できる集団なのだな、と実感した。
 今まで演劇やダンスにおける身体の考え方というのが今ひとつ理解できなかったのが、今回のこれらの作品をみて氷解する思いをした。ダンスにおける身体とは、それがなければ成立しない、ということを「観る」ことで体感した。 
 ところでアフタートークだが、思った以上に野田さんが言葉少なだったので、かなり物足りないと思ったが、野田さんは演劇人ではあるが、ダンス批評の人ではないので、ダンスに対してコメントを寄せるのは勝手が違うのかもしれない。その中で印象に残ったのが、「東洋の人は西洋の存在を無視することができないが、西洋は東洋のことを考えることがないのではないか」というような質問を野田さんがフォーサイスにし、それに対して、フォーサイスは「東だ西だと区別をつけるのはどうか」と答えていたこと。そのときは正直問いに対する答えになってないな、と思ったのだが、もしそういったことを意識しているというのであれば、フランクフルトバレエ団における安藤さんの起用の仕方はおのずと今とは違う形になるだろうし、そもそもフォーサイスは安藤さんを入団させないのではないか、だからあの答えだったのかもしれない、と腑に落ちたわけだ。


それにしても腑に落ちないのは、Excite blogのトラックバックのカテゴリに「舞台芸術」とか「演劇」とか「ダンス」がないこと。意外にこのカテゴリは需要があると思うのだが、どうか?
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by turujun | 2004-03-02 14:10