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舞台や展覧会など、さまざまな鑑賞活動の記録を綴る。タイトルとの関連はありません。


by turujun
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木ノ下歌舞伎「勧進帳」

予約を失念していて、当日券で観てきた木ノ下歌舞伎の「勧進帳」。今回で2度目の団体。
上演時間1時間という短いのに相当に濃厚、そしてポップな作品だった。

本編の面白さもさることながら、アフタートークの異様なテンションの高さ(主宰と演出)も相当のものだった。
そのアフタートークの中で、観客から「この作品で一体何が言いたかったの」という質問が出て、主宰および演出がそれぞれに「歌舞伎の中の勧進帳の位置づけの特殊さや権威を剥ぎ取りたかった」「現代の身体で表現する歌舞伎の追求」というような回答をしていた(ように記憶している)。
ここで私がふと気になったのは、質問した人は、この作品に何らかのメッセージや主張を読み取りたかったのではないかということだ。
 私の経験からすると、「物語」には主題=作者が言いたいことがある、と一貫して学生時代に教えられてきている。もしこれが私達の周辺の世代、そして私より下の世代において同じであるとした場合、特別な教育を受けていない限り、「物語」を含有するあらゆるもの、映画しかり演劇しかりなのだが、には主題があってしかるべきだと考える傾向があるのではないだろうか。そしてその「主題」はときとして作者のメッセージにすり替えられ、あらゆる作品には「意味のあること」が込められているべきだと考えてしまっているような気がする。

その一方で、演劇の創り手は、「演劇」を主義主張を発信する道具として捉えている人ばかりではなく、今回のように「歌舞伎の特異性に対する批評として」演劇をする場合だってある。
そうした場合、観る側の視点と創り手の意図にはおのずとズレが生じてしまうのではないだろうか。今日は観客側から創り手へ質問し、そのあたりが明らかになったので、ズレがあったとすれば修正されただろうが、これがそういったコミュニケーションがないままに観客が劇場を離れたとすれば、観客の中に演劇に対する不幸な誤解が生じるのではないだろうか…と思った。
by turujun | 2010-05-16 15:00 | 演劇